科学における人格問題

科学コミュニティにおいては「性善説」で行われているのだから、科学者は常に、人格的な完成者でなければならない、と思われている。そのことが、いわば、小保方問題における炎上の理由だった、と考えることができる。
しかし、小保方問題を女性差別問題として解釈することは、そもそも、STAP問題を社会がどのように受け止めたのかの意味を誤らせることとなる。STAP細胞は、iPS細胞に続く、

として受け取られた。それも、日本が世界に先行している、と。そこから、「国策」として、国の「テコ入れ」が必要と判断された。まり、そういったものとして、最初に日本の「科学ジャーナリズム」が国民を

  • 煽った

わけである。私はこの反動がそれ以降の小保方バッシングにつながったのだと思っている。つまり、日本の科学ジャーナリズムは

  • プライドを傷つけられた

わけである。これはそれ以降、小保方さんを擁護する人も批判する人も両方に言える。どっちにしろ、その「自らがSTAP細胞の<夢>を信じてしまった」ことの「幼稚さ」を、自らを責めるのではなく、その怒りの捌け口を

  • 一人の女性個人

に向けてしまった。つまり、「小保方さんが道徳的に悪いことが、自分が、こういった幼稚なことをしてしまった原因だ」という形で、物語を捏造したわけである。
そもそも、科学者は「嘘を言ってはいけない」のだろうか? 私はすごいことを言っただろうか? 嘘を言ってはいけないにきまっている。それが道徳なのだから。しかし、そういうことではなく、ここで聞いているのは、そういった科学コミュニティの

  • 中の人

のことに対して、なぜ、一般社会の「ルール」をもってきて、外の人たちがバッシングをしなければならないのか、のルールがよく分からないからなのだ。
科学コミュニティには、レフリー制度など、そのコミュニティの中での、独自の「評価制度」が存在する。だったら、それに対して、外部の人間がどうのこうのと言うことは、あまり建設的ではないのではないか。
つまり、これは言わば「自治」の考えである。
なぜ科学コミュニティが、みんな仲良しの、「お友達」ワールドでなければならない、と考えるのだろうか。別に、仲の悪い連中がいて、会議でも、まったく無駄口を交わそうともしない二人がいたって、別に、それによって「科学の真実が変わるわけではない」わけだろう。たんにそういうものとして、相手を利用すればいい。
人格的に完成していようが、人格的に破綻していようが、ようは、立派な学問成果を残せばいい。むしろ、人格的な完成者でも、学問的な成果を残す気力も能力も枯れてしまった時点で、彼らはその科学コミュニティから「卒業」するわけであろう。
小保方さんの場合、多い反応として、「なぜ彼女だけが責められたのか」という形で、これが「女性差別」なんじゃないか、といったバッシングにつながってしまった。しかし、私は逆に考えるわけである。彼女が「人格的に問題があったとしたって、別に、いいんじゃないのか」と。女性差別だ、と言う人たちは、むしろ、

  • もっと悪い男の科学者がいっぱいいる=そういった連中を小保方さん以上に処罰しろ

と攻撃し始めた。つまり、ハムラビ法典である。目には目を、歯には歯を。
つまり、彼女たちは、自らを「この世界のフェミニズム警察」として、特高となることを自任してしまった。しかし、こういった方向の「正義の暴走」は、最終的には、国民を全員、牢屋に入れるまでは終わらない。よって、日本に国民はいなくなる。なぜなら、国民は全員、なんらかの「悪」なのだから、国民を全員、死刑にするまで、この「悪の浄化」は終わらないからだ。
こういった問題は、3・11以降の「御用学者」問題にも通底している。
確かに、3・11の放射性物質の問題において、奇妙な「安全寄り」の発言を繰り返していた連中はいた。実際、彼らが受けもっている学生の多くは、放射能に詳しい知識を利用して、原発関連施設に「就職」していくのであろうから、間違っても、原発に批判的な発言をできないのであろう。なぜなら、そんなことをしたら、指導教官の発言で、生徒たちの就職が

  • 破談

してしまう。まさに「おみあい結婚」のようなものなのであろう。
つまりは、そういった連中が「うさんくさい」のは当たり前なのだ。むしろ、そういった連中に、パブリックな「発言の場」を与える、私たちコミュニティの方が、脇が甘いわけであろう。
しかし、このことは逆からも言えるわけである。水俣病において、御用学者たちは、次々に毒の魚を食べて、体に異変を来している人たちを「デマ」だと言って、バッシングを行った。証拠もないくせに、企業活動の邪魔をするな。
同じことが、3・11においても起こった。御用学者たちは、福島県の低線量被曝の影響を訴える市井の市民を「デマ」と言って、徹底した「人格攻撃」を行った。彼らは

  • 悪意

からやっている。だから、私には彼らを攻撃する「正義」があるんだ、と言ったわけである。
まさに、ツイッターのブロックと、同じ論法である。

  • 私は、あなたからの私向けのツイートから、私に向けた「悪意」を感じました。だから、私は、あなたが嫌いです。

まあ、これが「人文系科学」なんだよね。人文系のスペシャリストであり、高学歴大学の人文系を卒業した、俺様エリートは、なんのエリートなのかと考えると、ようするに「心理学」が得意なんでしょ。自分は「心のプロ」なんだから、理系の「人の心が分からない」、鈍感な連中とは違うのだ、と。だから、

  • 俺が、お前は俺に向かって「悪意」をもっている

と「分かった」なら、それはもう「正義」なのであって、それを、俺より低学歴の大学しか出ていない連中に言われたくない、というわけであるw
しかし、私はここで「善悪」とは何か、とか、「正義」とは何か、といった議論をしているわけではなくて、

  • たとえ、相手に「善悪」や「道徳」や「正義」になんらかの問題があったとしても

そういった「人の心の領域に介入すべきじゃない」という、

  • プライバシー

の観点から、基本的にそういった領域に介入すべきじゃない、ということではないのか、と思うわけである。
よく考えてみてほしい。あなたは、相手に「悪意」を感じたので、相手が「嫌い」になりました。そして、ツイッターなら「ブロック」をするわけですが、これって一種の

  • 差別

なわけでしょう。なんで、ツイッターって、こういった「差別行為」を許しているんでしょうね。世界の人権団体は、ツイッター社を訴えるべきだと、私は思いますけどね。
ようするに、もしも、科学者に「科学コミュニティ」内での、「自治」であり、その中での、「自由」を認めるなら、私たち大衆は、彼ら科学者の「内面」に介入すべきでない、というのと同じように、科学者も「大衆」の内面に介入すべきでない。
カール・シュミットの「友敵理論」は、相手が「敵」であると認定することと、相手が「悪意」をもっていると思い込むことは同じである。悪意認定は「敵」認定である。
そういう意味では、原発御用学者が、低線量被曝の危険性を国民に訴えようとしている人を「敵認定」することは、当然だとも言えるわけである。
例えば、こう考えてみるといいであろう。
高学歴の人や、富裕層の人の「敵」とは誰だろう? お金のない人、貧乏な人、低学歴な人なのではないか。彼らは、そういった「敵」と戦っているわけである。常日頃から、彼らは、なんとしても、自分たち高学歴で、富裕層な人々の稼いだお金を、税金でもっていかれて、貧乏人に使われることを、なんとしても阻止したい。だって、もしも阻止できれば、自分たちの手元に、今以上の、お金が残るのだから。
そのためには、こういった、低学歴な人、貧乏な人と「戦って」、勝つことが求められる。なんとしても、日本共産党に票を入れて、少しでも今の生活が楽になってほしいと思っている労働者を「敵」として、彼らに勝たないといけない。よって、彼らの敵は、日本共産党であり、彼らを「悪魔」と呼んで、人格攻撃を行う。
しかし、そういった共産党攻撃は、そもそも、一つの

  • 人格差別

なのではないのか。私から言わせてもらうなら、日本社会にはびこっている、日本共産党ファビア、つまり「日本共産党ヘイト」は、戦後の、アメリカCIAプロパガンダの「赤狩り」の延長にあるものであり、アメリカは戦後、日本中に、「共産党ヘイト」を、お金をばらまいて、ステマさせた。そういう意味では、原発推進共産党ヘイトは、似た構造にあるし、実際に、主張している人間の構成が重なっているw
彼は、どこかで、アメリカや自民党から、お金をもらって、そういったステマをしているのかもしれない。そういう意味では、アメリカの「スパイ」なのかもしれない。
日本の知識人が、「アメリカのスパイ」というのは分かりやすい構造だが、大事なポイントは、彼らの「共産党ヘイト」の

  • 言っている内容

が、

であるにもかかわらず、まるで、こういうことを平気で、公共の場で繰り返している「チンピラ知識人」に、なにか「一定の市民権」があるかのように扱っている、大衆社会の問題でもあるのであろう。
つまり、高学歴であり、お金持ちである連中は、共産党ヘイトを媒介として、

を「敵」認定して、低学歴、貧困層への「差別」を、パブリックな場で繰り返している、ということになるであろう。
彼らにはなぜか、「差別をなくそう」とすることと、自らの「日本共産党ヘイト」とが繋がっていると考えられない。そして、それが「貧乏人ヘイト」「低学歴ヘイト」となっていることを分かっていない。ようするに、「無意識」に、無邪気に差別をしている、という意味で、一番やっかいなのは、「高学歴チンピラ」なのかもしれない。
相手の「中」に「悪意」が

  • ある(=存在)

というのは、まさに、相手を「感覚」「欲望」として「対象」として解釈することと繋がっている。相手には「感情」があって、きっと相手は自分が嫌いなはずだから、相手が自分は「嫌い」であり、相手を「敵」と判断する。

  • きっと貧乏人は、自分のような裕福な人間を「嫌い」と思っているはずだから、「敵」だ
  • きっと低学歴な人は、自分のような高学歴な人を「嫌い」と思っているはずだから、「敵」だ

しかし、これって典型的な「差別」ですよね。どうして、こんな単純なことに気付かないんでしょうね。まさに、典型的な

  • 人間を「感覚」「欲望」によって<還元>しようとする「心理学還元主義」

なわけなんですよね...。