原田伊織『官賊と幕臣たち』

戦争とはなんだろう? 戦争は、ある意味において、非常に近代的なものなのかもしれない。その意味は、戦争の本質に関係している。
戦争が行われるとは、どういう意味か? 戦争は人殺しである。ようするに、戦争を行うためには、人殺しを行う「主体」を必要としている。さて、それは誰だろう? 戦闘員である。ここで、問題が発生する。なぜ、戦闘員は戦闘員なのか? つまり、なぜ彼らは戦闘員になったのか?
これは、かなり本質的な問題である。戦争を継続するには、戦闘員が継続的にその役割を果してくれなければならない。ところが、そういった役割成就の行動と、戦争はそもそも相性がよくない。
戦闘員が自らの役割を実行すると、その戦闘員は死ぬ。だったら、なぜその戦闘員は命令に従おうとするのだろう?
これこそ、はるか太古から、戦争の不可能性に関係した問題だった。
戦闘員は戦争に参加すれば死ぬ。わざわざ死ぬことが分かっているのに、なぜ戦闘員は戦争をするのか?
この疑問は、過去の歴史を冷静に眺めてみることで分かってくる。
戦争を戦うのは、

  • 底辺の連中

である。そもそも、エリートは戦わない。彼らは、影に隠れて、こそこそしている。絶対に敵に見つからないようなところから、あーやれ、こーやれと、命令しているにすぎない。つまり、エリートは死にたくないのだ。
戦争の主体である底辺の連中は、戦争の実質的な担い手として、敵を殺すし、殺される。つまり、なぜ、こういった連中は戦争を行え、と命令するエリートに「従う」のか?
いや。そうではないのである。「従わせる」などということはできない。そんなことができると思うことの方が、傲慢なんだ。では、エリートは何をしているのか?

  • バーター

である。エリートは、自らの命令に従ってもらうことと「ひきかえ」に、

  • 彼らの「やりたい」ことをやることを「許す」

わけである。戦争の本質は、あらゆる「野蛮」行為を、エリートは底辺の兵隊に行うことを許すところにある。
ある村に入った兵隊は、その村の、どんな人も、自らがもっている武器で、殺すこともできるし、殺さずレイプすることもできるし、殺さず「奴隷」にして売ることもできるし、

  • どういった「扱い」をすることもできる

わけである。それが、武力の非対称性である。圧倒的な破壊力をもつ武器をもっているのは、軍隊だけなのだから、住民は泣き寝入りすることしかできない。エリートは、底辺の実働部隊の兵隊に、こういった

  • プレゼント

をやるわけである。つまり、「戦利品」である。エリートは、こういった「飴」によって、戦士の「士気」を高める。つまり、少しくらい「はめ」を外させてやらないと、彼らの「士気」が高まらない、というわけである。
エリートは怖いのだ。もしも、彼ら実働部隊に十分な「快楽」を与えられないと、彼らの「不満」が自分に向いてくることになる。どうして、真っ先に自分が殺されないという確証をもてようか。

武田信玄が信州へ攻め入った時のこと。大門峠を越えた辺りというから今の茅野市立科町辺りであろうか、ここで全軍に七日間の休養が通達された。「下々いさむ事かぎりなし」とあるから、雑兵たちは喜びに歓声を挙げたことであろう。早速、一帯の村々を襲って「小屋落し」「乱獲り」「刈田」を繰り広げたのである。近在の村々を三日間で荒らし尽くしてしまって、もう荒らす村もなくなってしまったので、四日目からは遠出しての「乱獲り」となり、朝早く陣を出て、夕刻帰ってくるという有様であったという。勿論、獲物をたくさん手にしたことはいうまでもない。武田軍が休暇をとった地域こそみい迷惑であった。
武田信玄は、信越国境を越え、上杉謙信春日山城の近くまで侵攻したことがあったが、その時も近在の村々を放火し、女子供を大量に生け捕った。武田の兵は、奪った越後の人びとを甲斐に連れ帰り、自分や一族の奴隷(召使)として使ったり、売り払ったりして大いに潤ったのである。この時の合戦は、春日山城まで迫りながら、城を落とすとか越後の一部でも占領するという意志は全く見て取れず、「乱獲り」そのものが目的の合戦であったとしか思えない。
城攻めは城攻めで、これに成功すると褒美として「乱獲り」が認められていた。信玄が、上野の箕輪城を攻め落とした時、「武田の家のかせ者、小者、夫ども迄、はぎとりて、その上、図書介が居城にて、次ぐ日まで乱獲り多し」という無法が繰り広げられた。つまり、武田軍の悴者(侍)から下人である小者、百姓の陣夫に至るまで、城を足場に翌日まで城下で追い剥ぎをかけ、「乱獲り」を繰り広げたというのである。こうやって、武田領内の侍や下人・百姓といった雑兵たちは、戦を重ねるごとに「身なり、羽振り」が良くなっていったという。
武田の正規の武士団は、確かに強い。以前何かの書き物に書いた記憶があるが、「乱獲りばかりにふけり、人を討つべき心いささかもなく」と、雑兵たちの行状を嘆く視線も確かにあったが、武士の戦闘を妨げない限り、乱獲りは勝手、というのが、武田軍の基本方針であった。

戦争とは、自らの兵隊を利用して、人殺しを行う行為であって、そこには、圧倒的な武力の非対称性がある。基本的に戦争においては、兵隊は、民間人を虐殺する。それはつまりは、それだけの「武器」をもっている、ということを意味する。
ようするに、戦争とは、この「武器」による「自己実現」なのである。
自分は武器をもっているが、相手は武器をもっていない。そのことが、相手の生殺与奪の権利を自分がもっている、ということを意味する。
鎌倉時代の武士とは、盗賊とか追剥といった連中と変わらない。彼らは平安時代で言う「貴族」を次々と襲い、その延長に、応仁の乱であり、戦国時代があったわけで、基本的に日本の平和とは、その後の長い江戸時代をもってしかありえなかった。
しかし、その場合に、なぜ江戸時代は「平和」だったのかは、つくづく考える必要がある。
よく考えてみよう。
なぜ、戦国時代は上記の引用のような「野蛮行為」が横行していたのか?
この意味を少し考えてみる必要がある。戦争とは、「略奪」行為である。しかし、その場合の「略奪」とは、何をすることを意味するのか? もちろん、その町にある、あらゆる金銀財宝を奪うのであろうが、もっと直截に奪うものがある。それが

  • 人間

である。戦争とは、その町の人を自分たちの「奴隷」にするための行為であるという意味が、実は、もっとも大きな理由なのである。人間ほど、「高く売れる」ものはない。人間は絶対に損をしない「商品」なのである。
しかし、である。そういった戦国時代の大名たちは、自分たちが獲得した「奴隷」を一体、どうしたのだろう? 私は奴隷は「儲かる」と言った。しかし、よく考えてみると、一体だれが奴隷を売って、だれが買うというのだろうか?
つまり、奴隷市場というのは、少し奇妙なのである。
というのは、奴隷を売るということは、その奴隷を買う人がいる、ということを意味している。
それは、どういうことなのだろうか?
例えば、主従関係というものがある。兵隊が欲しいのなら、彼らを傭兵として雇うであろう。農民として、労働者として必要なら、彼らを農家の戦力として雇うであろう。そうではなく、「奴隷」として「売る」というのは、どういうことなのだろうか?
例えば、豊臣秀吉による、伴天連追放というのがある。キリシタン宣教師を、国外に追放する、というものであるが、なぜ秀吉がそんなことをやったのかを調べると、どうも、彼らキリシタン宣教師たちは、かなり広範に、国外と「奴隷貿易」をやってきた様相が見えてくる。
私たちの今の価値観からすると、どうしてキリスト教徒が奴隷貿易なんてやるのかと思うかもしれない。しかし、キリスト教徒がアメリカ大陸でインディアンを虐殺したのであり、南アメリカ大陸を滅ぼしたのであり、むしろ、奴隷貿易をやらない理由がないわけである。
キリスト教は、一神教であり、キリスト教徒かそうでないかの二分法しかない。キリシタン大名にしてみれば、キリスト教に改宗した国民は手厚く保護するが、改宗しようとしない仏教徒は、ようするに

なのだから、海外に奴隷として売れば「儲かる」というわけである。
そうして、多くの日本人が当時、キリシタン宣教師によって、世界中に奴隷として売られた。
なぜ、日本でキリスト教が今に至るまで普及しないのかは、この頃の負い目が彼らにあるから、であろう。
掲題の本でも、しつこく述べられているが、ことほど左様に、欧米列強は、江戸時代が始まる前から、日本の周辺に来ていたわけであり、そういう意味では、日本は一度として「鎖国」などということをやったことはない。
よく考えてみてほしい。
そんなにも、「当たり前」のように、日本の周辺の海を、欧米の船は、江戸時代が始まる前から、航行していた。このことの意味はなんだろう?
言うまでもない。日本の諸藩は、江戸幕府を飛び越えて、そういった欧米各国と「関係」を結ぶ可能性を、江戸幕府は嫌がっていた、わけであろう。
江戸幕府がやりたかったのは、そういった欧米との窓口を、江戸幕府「だけ」にしたかったわけである。他の藩に、単独で、勝手にやってほしくなかった。なぜなら、そんなことを許せば、当然、そういった藩が、「反旗を翻して」くることが予想されたからだ。
江戸幕府は、長崎の出島だけを利用して、オランダを唯一の欧米との窓口とした。
しかし、よく考えてみると、長崎は江戸から、あまりに離れていた。
つまり、そういった田舎の藩の「すべての行動」を、江戸幕府が「監視」できるような状況にはなかった、と考えるべきなのである。
ご存知のように、薩摩藩は、長年、隠れて、欧米列強と「コネクション」をもっていた。まあ、近くに琉球王国もあったわけであり、薩摩藩は、江戸中央に隠れて、欧米列強と「貿易」を行っていた。この緊張関係が最後になって爆発したのが、明治維新である。
薩摩藩長州藩は、欧米列強と、江戸中央に隠れて、こそこそと、貿易を行っていた。そういう意味で、彼らの戦力は、江戸幕府を凌駕していた。欧米列強が、薩摩藩と、長州藩を「支援」したから、薩摩藩長州藩は無尽蔵の、「武器」で、天皇であり、江戸中央を脅迫することができた。
しかし、そうであるからこそ、上記にある「乱獲り」が、もう一度、あらわれるわけである。
薩摩藩長州藩が行ったことは、

  • 圧倒的な武力の非対称性

によって、国内戦争を行うことであって、薩摩藩長州藩は、自藩の中の「底辺の連中」を満足させるために、国内の会津藩を「スケープゴート」にする。そして、この関係は、日本のアジア進出においても再現されるわけである。
中国大陸に進出した、薩摩藩長州藩を中心とした日本連合軍は、中国大陸で「兵站」を行わないということは、基本的に、あらゆる資材は、現地で調達。ようするに、

  • 中国現地住民への「乱獲り」

というわけである...。

官賊と幕臣たち―列強の日本侵略を防いだ徳川テクノクラート

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