アントニオ・ネグリ マイケル・ハート『<帝国>』

日本の戦後の自民党政治を見ていると、さまざまに「アメリカ」の影が見えてくる。つまり、日米地位協定に始まり、さまざまな日本の意志の決断の場には、アメリカが実質的に

  • 介入

してきた。いや。介入したかどうかは関係ない。民主党政権脱原発を政策とするとき、なぜか、彼らはアメリカに行って、

  • おうかがい

をたててきて、拒否られて、腰くだけの脱原発(はるか未来にやるかもね)となったことは記憶に新しい。
おそらく、こういった現象をこの本では、「<帝国>」と呼んでいるのではないだろうか。
国民国家は「弱体化」している、と言う。それは、グローバリズムのせいだ、というわけである。
いや。弱体化しているわけではない。そうではなく、「相対的」に別の権力との力関係が「拮抗し始めている」ということが言いたいのであろう。
その典型例がグローバル企業である。企業とは何者だろう? 企業は人ではない。企業は法的な「人格」をもった、ただの共同体である。つまり、人ではないが、あたかも人であるかのように「意志」を想定される。とにかく、人ではない。
つまり、どういうことか?
企業は、「人格」的組織である。つまり、企業とは人間が「使う」ものである。企業はなんのためにあるのか? 企業は「法的」な何か、である。つまり、企業は、私たち人間が、たんに人間であることによる「法的制約」を超えるために、企業を使うのである。
企業はやすやすと国境を超える。なぜなら、「人間ではない」から。人間なら、国籍があり、他国への移住でさえ、「移民の権利」など、さまざまな難しい処理なしには成立しえない。ところが、企業は、ただの「もの」である。そういう意味で、企業は最初から、どこの国の所属という言い方に意味がない。企業の構成要件は、個々の国民国家に依存しない。どこの国でも、企業は企業なのだ。
こういった企業の属性から、どういった資本主義的運動は始まるか?

  • 企業はできるだけ、税金を払わないようにする。つまり、世界中で一番税金が安い「地域」に、会社を<置く>。
  • 企業は<世界中>で、自社の商品を売る。つまり、どこででも売るが、結果として、多く売れればいいのであって、例えば、「日本向けに商品を作って、日本でだけ売る」といったことをしない。つまり、企業は自社の商品が売れる場所を求めて、世界中を「さまよう」わけである。

今、企業の「内部留保」が増えている。つまり、企業は利益が出ても、従業員に還元しない。どんどん、

  • 自分

が肥え太っている。なぜか? 例えば、企業の利益を全て、社長の給料にした、としよう。すると、どういうことが起きるか? 社長の給料は、累進課税によって、国家に簒奪されてしまう。ところが、それを企業の内部留保という形で、社長に移動しない、というだけで、この累進課税を免れるわけである。つまり、企業の内部留保は、一種の「税金逃れ」として使われている。
タックスヘイブンを使えば、実質的に企業は、税金を払わなくてもいい。つまり、企業活動は、現在においては、税金を一銭も払わずに行えるように、実質的にはなっている、ということを意味しているだろう。そして、富裕層は実質的な「税金逃れ」のために、企業を使うわけで、この手法を使うことで、彼らも、実質的には、税金を一銭も払わずにすむようになっている。
ようするに、どういうことか?
企業であり、富裕層は、一種の国民国家に寄生する「フリーライダー(ただ乗り主義者)」だ、というわけである。彼らは、上記のような手法によって、税金逃れを「合法的」に行いながら、国民国家

  • インフラ

を「ただ(無料)」で使うことで、企業収益を上げて、儲けを最大化している。

一九一〇年代および二〇年代の時点ですでにケルゼンは、国際的な法体系こそが、あらゆる国家の法的な編成および構成にとっての最高の源泉であるとみなされるべきだと提案していたのである。ケルゼンは、諸国家の個別的な秩序立ての形式的な力学を分析することをとおして、そのような提案をするにいたった。法権利の理念を実現するうえで、国民国家の限界は乗り越えられない障害となっている、と彼は主張した。ケルゼンにとって、国民国家の国内法という部分的で片寄ったものでしかない秩序立ては、論理的に要請されものであるばかりか倫理的に要請されたものでもある。というのもそれは、不均等な力を有する諸国家のあいだの紛争を終結させ、真に国際的な共同体の原理である平等を確証するものだからだ。それゆえ、ケルゼンが表示したこの形式的な順序の背後には、啓蒙による近代化という、現実的かつ実質的な動因が存在していたわけである。ケルゼンはカント的な仕方で「最高の倫理的理念と一体になった、人類の組織化」をもたらしうるような、法権利の概念を追求したのだった。言いかえれば、彼は、「個々の国家が同等な存在体として法的にみなされうる」ようになることによって、「普遍的な世界国家」の形成が可能となり、そして「個々の国家に対して上位に立ち、それ自身のうちに個々の国家すべてを包摂するような、普遍的な共同体」としてその世界国家が組織されることを求めて、国際関係における力の論理を超え出たいと望んていたのである。

なぜこの本の最初はWW2以降の国連の「ていたらく」から始まっているのか。それは、まるで、なにかの「パロディ」のように、国連の場においては、常に、さまざまな諸問題に対する「弥縫策」で埋め尽されてきた。
なぜ国連は、こういった「弥縫策」によってしか存在しえないのか。なぜ「そもそも論」が通用しないのか。そもそも、国民国家それぞれは、どのようにあらねばいけないのか。それを、ケルゼンが、各国家の法体系を、超えたものとして、まさに、カント的な理念として構想する。それは、言わば、それぞれの国民国家の法体系がどういったものであらねばならないか、の

  • 延長

として、必然的に導かれるものであった。
ところが、そうなっていない。
そういう意味において、こういった状況を、WW2以降私たちは「帝国主義」と呼んできたわけであるが、こうも、まったく変わらない、というか、より「ひどく」なっている状況においては、それを「帝国主義」といったような、

  • 大国のパワーゲーム

のような認識では、今の状況を正確につかまえられていない、といった実感が、

  • 今の状況に対する<別の呼び名>

への誘惑につきつけられる。つまり、この文脈において、この本はたんに、

といった、「なにものでもないもの」を、ここでは仮に「<帝国>」と名づけているにすぎないわけである。言うまでもなく、帝国という言葉には、過去において「存在」した意匠を帯びている。そういう意味では、ここで「帝国」という言葉を使っていることには、なんらかの意味がないわけではない。しかし、これは「帝国」ではない。帝国は過去のものであり、過去にあったものであり、じゃあ、なんで、今の状況を「帝国」と呼ぶのか?
その理由は、この本でのもう一つのバズワードである「マルチチュード」に関係している、と言うこともできるであろう。
マルチチュードとは、言わば、「大衆」のことである。では、「大衆」とは誰か? 大衆とは、上記の文脈において、富裕層や企業によって、「フリーライド(ただ乗り)される側」のことである。損をしている「全て」の人ということになる。
なぜ企業や富裕層は、「フリーライド(ただ乗り)」しているのか? それは、彼らを「優遇したい」と国民が思っているからではない。つまり、話はまったく逆なのだ。ある「ルール的な優遇」を行うことによって、

  • 公共の「利便性」を増大してくれる

といった「期待」がこのような「ルール的な優遇」を結果している。ようするに、「性善説」なのである。みんな、いい人だから、きと、自由にやってもらえば、「いいこと」をしてくれるに違いない、と思ってやらせたら、制度の裏を突いて、税金逃れを始めやがった、というだけなのだ。
しかし、そうなってくると話は違ってくるわけである。
私たちは、こういった「非倫理的」な存在と戦わなければならない。制度とはそういうものなのだ。
企業を私たちは、なぜ野放しにしているのか。それは、彼らが「サービス」を提供しているから。つまり、サービス提供を「独占」しているから。それが彼らの戦略である。低価格で市場を独占してしまえば、競争他社を「倒産」に追い込むことができる。そうやって、一切の「サービス」を独占してしまえば、あとは、徐々に「値上げ」をすればいい。
そのように考えたとき、近い未来には、世界中には

  • 一つの企業

しか存在しない世界が来るのではないだろうか? もちろん、独占禁止法はある。しかし、私たちは本当に独占禁止法の意味を理解しているだろうか? 私たちは一円でも安いサービスが欲しいんじゃないのか。だから、値下げ競争で次々と倒産に追い込まれる弱小企業を冷遇してきたのではないのか。だとするなら、独占禁止法は、

  • 私たち国民の<運用>において

実質的に機能しない。つまり、国民は損をしたくないから、独占禁止法を有名無実化する。
こうして、世界には「<一つ>の企業」しかなくなる。企業とは「固有名詞」になる。企業は大文字の「ザ・企業」になる。
言わば、国民は自らへの「サービス向上」のために、一切の「企業活動の禁止」、ただし、一社を除いて、を目指すことになる。
大衆は、企業活動を行えなくなる。
これが「帝国」だと言ってもいい。
マルチチュードは、たんに、こういった運動に対して、別のオールタナティブを提示していくことに意味がある。なぜ、企業は上記のように「堕落」するのか? それは、企業を「性善説」で考えられなくなったからだ。税金逃れなどの行動により、企業の倫理性を担保できなくなった。
だったら、話は違うわけである。
ここからは、別の「ルール」で行くしかなくなる。つまり、どういうことか? 大衆は「性善説を生きてはならない」わけである。なぜなら、企業が「性悪説」を生きているのに、大衆が性善説を生きようとすれば、大衆の損が増大するだけだからだ。まさに、ゲーム理論なわけで、ここで、大衆は「戦略」を転換しなければならない。
まさに、弁証法だ。
では、どうするのか? まず、大衆「全員」を<企業>にする。そして、大衆「全員」を<タックスヘイブン>に所属させて、全員を「税金逃れ」をさせる。
そういう「システム」を作る、わけである。
こうすることによって、誰も税金を払わない社会にする。もちろんそうすれば、国民国家は「困る」であろう。しかし、そうすることによって、企業による、大衆がなけなしのお金を払って作り上げていた「インフラ」への「ただ乗り」を拒否することが可能になる。
非倫理には非倫理で対抗する。
大事なことは、「世界のルールを変える」ことである。それは私たちの「善意」に、恩をあだで返すような非倫理的存在へのカウンターパートとして、世界が選択しなければならない「変化」なのであって、その一歩をためらうごとに、状況は悪化の一途を辿るわけである...。

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性