意味の自己言及性

スティーブン・ジェイ・グールドという進化論学者が、「パンダの親指」なるものに注目したことは有名だ。つまり、私たちはパンダが、まるで人間のように器用に笹の葉を食べている姿を見て、まさに、人間が「物を掴む」ように、笹の葉を掴んでいる姿が、実は、それは、「親指」ではない、ということを知って、びっくりする。
それは親指ではなく、なんだか、「骨がでっぱっている」、言わば、第六の<指>だというわけである。つまり、指じゃない。ただの、骨がでっぱっているものであり、まったく違った「意味」で、その骨は、本来は使われていた。
しかし、実際にパンダは「それ」を、まるで、人間で言う「親指」のように使っている。それはなんなんだ、とグールドは考えた。
今のパンダがこのように、笹を食べているのは、その親指を「そのように」使うようになったことと、深く関係している。しかし、明らかにその骨は、昔はそのような用途のものではなかった。
ここには「二つ」の不思議な相が関係している。

  • もともと、どうであった、という<規範>
  • <今>ここにあるリアル

ここにある「リアル」において、パンダは、ある日、偶然、「それ」を親指のように使うと、笹の葉が食べやすいことに気付いた。しかし、それを「偶然」と呼ぶことは正しいのだろうか? というのは、間違いなく「それ」は、パンダの目の前にあった。以前は確かにそう使われていなかったかもしれないが、実際にそう使われるようになれば、便利なだけでなく、まったく、ライフスタイルが変わるところまでの「変化」をもたらす。
こういったものを、経済学では「イノベーション」であり、「ビジネス・モデル」と呼ぶ。
この場合、

  • 何かが変わった(それを「親指」のように使って、食事をするようになる)

も正しいが、

  • 何も変わっていない(それは以前からそうであるように、「親指」ではない)

も正しい。つまり、その二つが別の様相に対して、同じく働くために、一見矛盾した事態が訪れる。なにも変わっていないのに、実際に、パンダは笹の葉を以前以上に大量に食べられるようになる。そして、実際に毎日、そんなに食べれば、体格も変わってくるという、

  • 別の変化

が起きている。こういった状態が長期に続けば、周辺の食育環境も、いろいろと変わっていくのであろう。そして、しいては、「全体」が変わっていく...。
変わっていないのに変わった、という意味はそういう意味であるが、ようするに、「進化」とは、こういうことを意味している。風が吹けば桶屋がもうかる、ではないが、ある直接的な作用が

  • 本質的

な変化を起こしていないことは確かだが、それが、回り回って、さまざまに時間をかけて、変化させていく、ということは、往々にして見られる。

最初、この世には生きものはいなかった。そのときは、この世で起こることを理解するには物理的スタンスで十分だ。ところが、化学反応のスープの中から、生きものと呼べるような独特のシステムが生じてくる。そうなると、たとえば機能とか目的の原型のようなおのがこの世に生じる。
この目的なるものは、最初のシステムにつくりつけになっている。つまり、システムは実現でいる目的しかもたないし、その目的をいつでも直ちに実現しようとしてしまう。そういうつくりになっている。たとえば、カエルの「食べる」を目的としたシステムは、目の前に黒い小さな点(たいていはハエ)が現れると自動的に舌を伸ばして食べてしまう。

哲学入門 (ちくま新書)

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言うまでもなく、生物の「原型」である、上記の「化学反応スープ」には、親指がないどころか、私たちが言うところの生物ですらない。しかし、そういったものが、なんらかの複製機能をもつようになり、そして、その複製という意味では、

  • パンダと同じ

なのであり、そして、パンダが「親指でないものを、まるで<親指>のように使う」ようになったのと同じように、この」化学反応スープ」が、

  • 何も変わらない
  • 何かが変わった

の「弁証法」を続けることによって、長い時間をかけて、パンダであり、パンダの親指に<なった>んじゃないのか、と言っているわけである。
私はここで、人間の説明において、いわば、「物理学」で全てを説明できる、という立場を、どう考えたらいいのか、に取り組んでいると言っていい。
人間は最初、「化学反応スープ」から始まった。それが、自己複製機能をもち、DNAやRNAをもち、今に至るわけだが、そうした場合に、私たちはどうしても

  • 心理学(心、意識、意味、合理性)

といった言葉を使わずに、議論をすることができない。つまり、こういったものの「根拠を示すことなく」話さずにはいられないわけである。
ようするに、私はここで、「心理学」を、物理学に「還元」するということが、どういうことなのかを考えたいのである。
一般的に心理学は、

  • 欲望、欲求、反射、快楽、感情

といった言葉で説明される。しかし、よく考えてみると、こういった言葉はようするに

  • 意味(真、偽)の判断

に関係して発していることが分かるであろう。ようするに、ここでは「意味」という表現が、何に関係して存在しているのか、を説明する必要があるわけである。
数学は、二つの分野に分けられる。数理論理学と意味論(モデル論)である。と言ってはみるが、そもそも、前者以外の数学は存在しない。前者は、一般に、計算論とか、公理的形式論とか言ってもいいが、つまりは、こちらは

  • 意味がない

わけである。公理的集合論は、「それ」が何を意味しているかに関わらない。それは、形式的体系にすぎなく、そもそも話が逆なのだ。ある「対象」の形式を分析していくと、そういった公理で形式化「できる」から、そこから導かれる結論は、「それ」にもあてはまるのではないか、と言っているのであって、「それ」が何かなどと問うことは、本末転倒なのだ。つまり、

  • 「それ」があてはまるものすべて

が「それ」なのであって、「それ」そのもの、ということに興味がない。
対して、意味論とは、どういったものなのだろう? 意味論は以下の構造をしている。

  • 意味:対象 --> 真偽

これを私たちは、どう考えればいいのだろう? ようするに、どういうことか? 意味というのは、「それが正しい」「それが間違っている」と判断している「人間の行動」に関係して

  • 始めて

登場しているわけである。しかし、それはおかしくないだろうか? 私は今、人間を定義したかった。というか、自分を定義したかった。だというのに、意味は、その「自分を除いて」は

  • 定義できない

構造になっている。こういった関係を、数学では「自己言及的」と言う。つまり、自分の定義に自分を使っているために、なんらかの「トートロジー」の構造になってしまっている。自分が何かを言うためには、自分が何なのかが分からなければならない...。

間違いの余地をもつのが「意味する」の特徴だと述べた。「意味する」には正しく意味した場合と間違って意味した場合の区別がある。一方、自然界では起こるべくして起こる。そこには、正常も異常もないし、正しいも間違いもないように思われる。そうすると、こうした「意味する」の規範性は、自然を解釈する者が外部から持ち込むほかはないように思えてしまう。こうしてわれわれは解釈主義に誘われる。
しかしわれわれは、解釈者を前提せずに、表象は自然の中で何かを意味できているのだ、という方針で臨もうとしていたのだった。
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この前の「科学哲学の冒険」もそうだったけど、どうしてこの著者は、こういった「カテゴリー錯誤」を繰り返すのだろうか。
人間という認識マシーンは「自己言及的」にしか存在しない。だとするなら、その認識マシーン自体を

  • 自然化

することなしに、どんなことも決定しない。例えば、知的障害者の方々を考えてみてほしい。彼らは、「認識マシーン」である。しかし、私たちがここで想定している「認識マシーン」ではない。しかし、この区別は本質的だろうか? 意味とは、最初から、そういうものだと言うしかない。知的障害者たちも、自分の「意味」をもっている。それが生きる、ということなのだから。そして、知的障害者でない人たちも、なんらかの意味において、少なからず、知的障害者である。ここに、なんらかの意味における

  • 正常

というバイアスを介入させた時点で、上記の「解釈者を前提せず」といったことが何を意味しているのかを示すことになる。ようするに、「解釈者を前提せず」という

  • イメージ

  • <正常>な人が解釈する

と「同値」の意味で使われている、わけである。「科学哲学」とは、「<正常>倫理」なのだ。
例えば、あなたは「自分」が知的障害者だと仮定してみてほしい。そんな自分が、まるで、晩年は狂者と変わらなかったというニーチェのように、「科学の根拠」を<考えている>としよう。さて。<異常>な私は、<真実>に辿りつけるであろうか? もしかしたら、辿りつけるかもしれない。だめかもしれない。しかし、大事なことは、そんなことではない。どっちにしろ、その

  • 営み

も含めて、進化論的に変化していく、ということなのである。意味は「進化」する、私の意識とは関係なく。つまり、私たちのこの「科学哲学」の營みも含めて、自然化=進化論化されている、というわけである。
例えば、こんなふうに考えてみよう。
私たちは、知的障害者はなんらかの「異常」のために、自然界では生きていけない、と考える。たとえば、肉食動物と出会っても、すぐに戦わなかったり、逃げたりしないため。それに対して、「正常」な私たちは、ちゃんと「科学的」に正しく判断するから、生き残る、というわけである。
しかし、である。もしも、「ある」一部の事実<だけ>は私たちはどうも、正しく認識できないように「できている」としたら、どういうことになるだろう? 私は上記で、知的障害者は「異常」だから、間違って判断して、

  • 死ぬ(=進化論的に敗者になる)

と言った。知的障害者がそうなら、私たちという「正常」者も、上記の理由で「そう」だということにならないだろうか。人間は「科学的」に正しく判断できない。なぜなら、人間が「ある側面」においては、正しく判断できないように

  • できている

から。これは、人間の「滅び」について、私が考えていることである。人間には欠陥がある。人間は、ある側面において、正しく外界を判断できない。
しかし、である。
変な話であるが、人間はたとえ「そう」だったとしても、生き残る可能性がある。それは、知的障害者が生き残る可能性があるのと変わらない意味で。つまり、たとえそれが「間違い」であったとしても、それで生き残るのに、必要十分であるかもしれないから。ようするに、パンダに親指がないにもかかわらず、まるで、ただの骨の「でっぱり」を親指の代わりのように使っているように、間違った認識を、なんらかの、

  • 解釈の変換

を通して、無害なものに変えているかもしれない。つまり、間違っているから、すぐ死ぬわけではない、というわけである...。