村田雄介『ワンパンマン9』

少年ジャンプ的な何かを考えたとき、例えば、本宮ひろ志の一連の作品があって、その延長に、車田正美のような「リングにかけろ」のような作品があって、そして、その延長に、今のワンピースや、ワンパンマンのような、より

  • シュール

なものがあらわれて、といった形で整理できるのではないか、と思っている。
それはまさに、カントの崇高論と同じ形式をたどっている。
最近、車田正美の「男坂」というマンガが、週刊プレイボーイ(WEB)で再連載を開始している、ということで、あらためて読んでみたのだが、このマンガには、そういった系譜の問題が、典型的に集約しているように思われる。
確かに読んでみると、この漫画が第三巻で連載打ち切りになった理由がよく分かる。とにかく、「ケンカ」ばかりやっている。しかも、ナイフなどの現物を使っている場面も描かれているわけで、あまり、少年教育上「よくない」という話になったのであろう。本宮ひろ志の初期の作品が描かれた時代とは同じに語れない、

時代になった、というわけである。
しかし、実際に読んでみると、例えば第一巻の冒頭の言葉は孟子

  • 天下の広居に居り 天下の正位に立ち 天下の大道を行く

が引用されていたりするわけで、こういった所は、いわゆる、日本の任侠道が、国貞忠治といったような源流から続く、なんらかの儒教的なものを裏側にもった、義の運動として捉えられていたわけで、こういった傾向性は、ワンピースにも見られる。
主人公の菊川仁義、13歳は、地元の九十九里浜で、いつものようにケンカをしていると、関西一帯を牛耳る、武島軍団の首領(ドン)、武島将に出会う。彼は幼少の頃から、ケンカに勝つための英才教育を行われて、まったく相手にもされないが、仁義の示した、死を賭けた捨て身の攻撃に、最後は、ワンパンをくらい、仁義の実力を認めることになる。
それ以降は、仁義の回りに、次々と彼をボスであり、義兄弟として慕う、多くの全国の有志が彼の元に集まってくる、という展開になるわけであるが、その彼の回りを魅きつけてくる何かが、この作品の本質ということになる。
ところが、第4巻以降の最近、連載を再開された内容が絵の「文体」が大きく変わっているだけでなく、その内容においても、大きな変化が見られる。第4巻の「北の大地」編では、アイヌの山の「動物」たちのもつ「野生」であり、「動物との共生」が一つのテーマとなったり、第5巻の「横浜のジェリー」編では、仁義はもはや、「小さな戦い」に暴力をふるうことを拒否する。大義のために生きる人生に、小事にこだわることを否定するわけで、もはや、仁義自らが、暴力を振るわない、という境地にまで至ってしまう。
確かに、第3巻までの「ケンカ」の延長において描かれた作品スタイルには、ある種の「あぶなさ」があった。それは、しょせん、人間の体は「壊れやすい」という意味において、暴力は死に直結しているから、と言えるであろう。
しかし、他方において、仁義における「儒教」の示唆は、なんらかの人間的な魅力、つまり、「徳」を示唆するものがあったわけであり、それゆえに、仁義の回りに義兄弟が集まる、という構造になっている。
ジャンプのそれ以降の歴史は、言わば、この二つの特性を保持しながら、その暴力の「非現実性」を、なんらかの形で「昇華(=処理)」することが求められた。
それは、掲題のワンパンマンにまで至ると、もはや、なぜ主人公の埼玉さんが強いのかの理由も説明されない。というか、強いとか意味分からない。とにかく、どんな相手が来ても、それを

  • 上回っている

という「設定」だけが存在するような存在であって、それ以外の定義ができない。とにかく、自分はなにも怪我をせずに、相手を倒しているという結果だけが、ケンカの後には残されている。もはや、そういう「設定」になっている、としか言えないような

  • シュール

さに彩られている。その奇妙さは、彼の「日常」として描かれる

  • 普通さ

において、最も象徴されているわけで、とにかく、私たちとほとんどなにも変わらないような生活しかしていない。
掲題の第9巻において、B級1位の地獄のフブキは自らの軍団をひきつれて、B級になったばかりの、埼玉さんに「あいさつ」に行くわけだが、まったくの、能力の差に圧倒されて、去っていく。超能力を使う、地獄のフブキは、自らの限界を分かっている。分かっているからこそ、あえてB級にとどまっている。また、自分の弱さを認めているからこそ、徒党を組んで、今の地位を維持しようとしている。
しかし、埼玉さんはそれは「ヒーロー」ではない、と言う。埼玉さんの言う理屈は簡単だ。結局、自分より弱い手下は、自分が苦しんでいるとき助けてくれない。彼らは見捨てるだけなのだ。そういう意味では、最後は自分しか信じられない。いや。それだけ、ということはない。自分が強いと認めた相手に、自分が認められれば、彼らは困っているとき助けてくれる。しかし、それは自らが自らに任じているから、と言うこともできるであろう。そういう意味で、なんらかの「徳」についてのリスペクトが、今もこの系譜においては、続けられている、と考えることができるであろう...。