メンバーシップ型

安倍政権が、日本共産党を「破防法」の対象だということを、「閣議決定」したという、バカバカしさは、じゃあなんでそんな政党が今まで、当たり前のように、野党として活動してきたんだろうな、という話なわけであろう。
ずっと、国会で自民党日本共産党と一緒に、「国会運営」を行ってきておいて、選挙直前の今さらになって、民進党の側に日本共産党がつきそうだとなると、こんなことを言い始める態度は、アメリカが今までさんざん、シリア政権と対立して活動していたゲリラ勢力に資金強力からなにからしていたのに、そうやって「援助」をしたら、アルカイダやISのように「巨大」になっちゃったから、今度は、シリア政権に「援助」を始めて、アルカイダやISと戦うと言っているのと、同じわけであろう。
自民党はそもそも、選挙に勝つためならなんでもやってきた政党であり、そうして、当時の社会党と組んで、村山政権を作り、今は、公明党と組んでいるわけで、状況が状況なら、自民党日本共産党と組んでいても、不思議じゃない。
というか、そもそもの問題は、自民党立憲主義を無視して、違憲な安保法制を強制してきたところにあるのだから、その一点において、野党が団結するのは当たり前なのであって、逆に聞きたいわけである。ファシズムに対抗するための、政治勢力の結集を否定する人は、どうやってファシズムと対抗すべきだと思っているのだろうか、と。
というか、いわゆる日本の「左翼フォビア」の人たちって、いわゆる

に対して、本気で戦おうと思っているのだろうか? 彼らの言っていることを聞いていると、結局、ファシズムは悪くないと言っているようにしか聞こえない(実際、リフレ派はどうも、安倍政権がリフレ政策を続けている限り、応援するという構造になっているようだしw)。もっと言えば、彼らは「差別」に賛成している、と言ってるのと変わらない。私は、いわゆる、日本の「左翼フォビア」の連中は、一種の「差別思想」を語っているのだと思っている。よく聞いていると、それは、いわゆる「好みだ、好みでない」といったレベルではなく、

といったレベルのことを言っているわけで、その延長で、ヘイトスピーチを行っているわけで、これは政治的レベルの意見ではなく、日本共産党への差別発言だと言うしかない。
例えば、託児所落選問題にしても、平気でそれを「自己責任」だとか言い始める連中が、湧いてくるわけであるが、本質的にそこに私は彼らの、「女性差別」があると思うわけである。つまり、彼らにとって「女性フォビア」と「女性差別」が区別できていない。これは、日本の「左翼フォビア」と「左翼差別」が区別できていないのと同じで、かなり深刻な

となっているわけである。

ところが日本型「自己責任」論では、例えば生活保護を受けている人は、「国家共同体のメンバーとして当然果たすべき役割を果たさず、国家共同体に迷惑をかけている存在」という位置づけにされているのだと思います。道徳的に劣った存在とされているわけです。だから、生活が苦しいのは「悪いこと」をした報いなのだから、甘んじてそれを受けなさいというのが、ここで言う「自己責任」の意味になります。

ようするに、日本の「左翼フォビア」や「女性フォビア」にとって、「左翼」や「女性」は、この日本という国の

  • その立場から、当然想定される役割や責務を果たしていない

と言いたいわけであろう。つまり、「道徳的」に、左翼や女性を嫌っており、その延長で、「差別」している。
この日本で産まれたからには、女性は子どもを産むために生きているのだから、学歴不要、高学歴は男だけでいい(実際、進学校の多くが男子校だったりするわけで、そもそも、その頃から女性差別主義者として育ったのかもしれないがw)、企業エリートは男性がなればいい。同じように、日本としての義務を果たすためには、左翼になるはずがない。左翼になろうとする時点で、日本人としての「当然想定される役割や責務を果たしていない」ことは自明、というわけであろうw
まあ、「道徳」なんですよね。
もっと言えば、「正社員倫理」とでも言えばいいんですかね。

他方、「メンバーシップ型」だった従来の日本企業の多くは、職務も権限もはっきりしないのが特徴だったと思います。事業の出来不出来が誰のせいかよくわからないわけです。ということは、そもそも「自己決定の裏の責任」を問うことができない仕組みだったわけです。だから、責任追及も個人ではなくて、集団単位でやっていたのだと言います。
そこで個人の責任を問うことがあったとすれば、それは「集団のメンバーとしての責任」の方だったわけです。つまり、本来果たすべき役割を果たさないこと、典型的には、サボったり、経費を私物化したりといったことが、個人責任を問われるケースだったということになるのだと思います。つまり、「懲戒」事案とひと続きのことというわけでしょう。悪意なく人並みにがんばっているかぎり、個人責任を問われることはなかったわけです。
ところが、その仕組みが残っている状態で「成果主義」が導入されるとどうなるか。自己決定の権限もはっきりしないのに、成果の不出来については個人が責任を負うということになります。濱口さん曰く、「『集団のメンバーとしての責任』の過剰追及が始まってしまう」「『みんなに迷惑かけやがってこの野郎』的な」責任追及にならざるを得ず、「俺だけが悪いわけじゃないのに」「詰め腹を切らす」型の個人責任追及が蔓延するわけですね。
自由のジレンマを解く (PHP新書)

ルソーの言っている「一般意志」って、ようするに、こういうことでしょ?
自分が産まれる前から決まっている、日本のさまざまな「慣習」について、日本に産まれたからにはそれに従わなければならない。なぜなら、日本に「産まれてきた」という時点で、この「慣習」を受け入れると決断したことと同値なのだから、と。
「ジョブ型」の仕事のやり方であれば、仕事を始めた時点で、この仕事の成果に応じて、払われる金額が決まっている。だから、仕事が目の前にない時点で、別の仕事を探して、流動的に雇用されることは当たり前となる。他方、「メンバーシップ型」の仕事、つまり、大卒の新卒採用では、その時点で自分が会社に入って何を行うかは決定されていない。そもそも、今その仕事を行う能力があるかどうかに関係なく、雇用され、その後に、その能力を獲得していくことが前提とされる。しかしそうなると、こういった雇用形態の人の業績評価というのはよく分からなくなるわけである。目の前の仕事が「できない」ことは当たり前であり、もちろん、それを行うことができる人が回りに大勢いるのだから、当座は、それで間に合う。だとするなら、その人は何によって評価される、ということになるのか。
まあ、「サボってない」ということくらいしか、なくなるんですよね。休憩をしないわけです。だから、「やっている」から評価する、ということになる。もちろん、「サボってない」わけだから、いずれは、仕事を覚えるのだろうが、常にあらゆることがその延長だから、逆に仕事ができたできないって、どうでもよくなるんですよね、「言われたことをやった」とか「サボっていない」とか、そういった判断がまずあって、

  • なぜ、その仕事が成功したのか?

といったことは、こういった延長にしか、考えなくなる。「言われたことをやった」「サボっていない」だから、仕事が成功して当然。その論理的な理由はない。「ジョブ型」なら、自分が成功させられない時点で、解雇決定なんだから、そんなことは自分で「工夫」をするわけですよね。どうすれば、短時間で、あらゆることを効率的にやれるのかとか、ミスせず行えるか、とか。でも、「メンバーシップ型」になると、そもそも、そういった発想をすること自体が、残業代が減るとか、余計なことをして、時間をつぶして、一種の「サボっている」というわけになる。
まず、常識とか自明っていう言葉を使うことを止めるところから始まるのかもしれませんね。つまり、「一般意志」を拒否して、そこから、始めて「考える」ということが始まる。なんにせよ、「方法」の意識のないものは、こういった結果になっていく、ということなのであろう...。