松尾匡『自由のジレンマを解く』

世の中の「自由論」がおかしいのは、それが「左翼」の思想だから、といった考えは、私はものの本質をとらえている、と思っている。
ここで「左翼」とはなんだろう? 「左翼」の特徴は、

  • 論点先取り

にあると思っている。つまり、そこには「仮定」が含まれている。というか、その仮定が「なんなのかが分かっている」ことが前提になっている。つまり、

  • 正しいから正しい

というトートロジーを言っているにすぎなく見える。ところが、左翼の方にしてみれば、自分は世の中の真実について語っているのに、どうして世の中の人は「びっくり」してくれないのだろうと、ますます「過激」にがんばって、みんなに知ってもらおうとするから、「意識高い系はウザイな」となってしまう。
例えば、グローバリズムというものがある。これは、新自由主義の思想から派生したものと思われているわけで、一つの「現実」に関係している、と思われている。つまり、右の考え、と。ところが、マルクスは左翼革命は「世界同時」と考えたわけで、そもそも、左翼とはインターナショナルなわけである。つまり、

なのだ。そもそも、左翼は国家を認めない。ということは、複数の国家を認めない。世界が「フラット」になることは、左翼の初歩の初歩とも言っていいわけで、

  • フラット革命=左翼

なのだ。

今日では、市場化、グローバル化を推進しようという立場の人は、国の自立性や独自性はなくなってもOKと言わないわけにはいきません。世界に権力機関はアメリカ政府だけあれば十分、各国にあるのはその出先機関でいい。そう言い切ってこそ、すっきり筋が通ります。逆にナショナリズムにこだわろうと言うならば、市場化・グローバル化に歯止めをかける立場に立たないと筋が通りません。

私は本質的に、自由論には一つの欠点がある、と思っている。それは、「自由は正しいのか」にあると思っている。つまり、「自由が正しい」ことが無根拠であること、に。
世界は自由である「べき」とは、なにか?

橋爪大三郎 聖霊がどんなふうに働くかというとですね。選挙を非常に真面目にやる。選挙の日が来ると投票しなくちゃいけないでしょ。これは最後の審判とよく似ているんですよ。その日が来ちゃうんですよ。その時に自分の応答責任を果たさなければいけないんですね。でも、クルーズとルビオとどっちに投票したらいいかわからない、っていう人の話がね、出口調査の所で出て来て、その人はどうしたか。電子機械なんですけど、クルーズとルビオのボタンを一遍に押した。一遍に押すと、でも、タッチの差でどっちかが付くじゃないですか。それにしようって。
本人としては同時に押してるんですよ。そうすると、どっちに入るかは偶然じゃないですか。だけど、聖霊の働きによれば、偶然というのはないわけ。偶然の中に神の意志が働いてるんだから、そうすると、結果的にクルーズになった、これは神の意志で、私はクルーズに投票すべきだった、ということになるんだから、それでいいんですよ。
この話を聞いて、あ、この人は聖霊によって動かされているタイプの人だ。非常に真面目に応答責任を果たして投票しようとしているわけですね。でも、最後まで決められなかった時には同時に押すというやり方をするわけです。こういう人が、三億人のうち、一億人くらいいると。
こっから、共和党民主党と分かれてくるわけですけど、共和党はどういうゲームかというと、マーケットっていうのがあって、資本主義ですけど、みんな同じ機会の平等でもって、ポケットに百ドルとか入れて、市場に参入すると。で、ゲームを行うと。だれが儲かるか、だれが損するか、まったく分からないわけですよ。でもそこには、かならず、神の意志が反映されているわけだから、その結果を受け入れなくちゃいけない、だれが金持ちでだれが貧乏人でもそれに、介入しちゃいけないという考え方があるあら、社会主義政策で、金持ちから税金、うんと取って、貧乏人に撒くなんて、やっちゃいけないっていうのが、共和党の基本的な考え方なので。
VIDEO NEWS大震災でも変われない日本が存続するための処方箋

世界が自由であるべき、というのは、カントの実践理性の命題なわけであろう。しかし、カントは現代的な、例えば「科学哲学」的な意味で神を「しりぞけていない」わけである。つまり、ある意味においてはしりぞけているのかもしれないが、ある意味においてはしりぞけていない。つまり、「思弁的」にはしりぞけていない。実際に、カントの本には何度も「神」という言葉や「宗教」という言葉がでてくるのだから、「神」や「宗教」という言葉を使うことについて、意味がないと考えているわけではないのだろう(なにかを意味している、とは考えているのだろう)、と。

世界には陰核切除をするコミュニティもあるし、悪魔狩りをするコミュニティもあるし、レイプの犠牲者の女性側を殺すコミュニティもあります。それぞれのコミュニティの「共通善」を尊重するというならば、これらに対して批判することも、「先進国の特殊な価値観からの裁断である」として退けられなければならないことになります。しかしこれらのコミュニティのメンバー全員が、こうした価値観を受け入れているかというと、あはり同調圧力からこぼれ落ちて抑圧を感じる犠牲者は必ず存在します、深沢七郎の『楢山節考』でも、姥捨ての風習を内面化して淡々と死に臨む老婆とともに、どうしてもそれを受け入れられず最後まであがいて殺される老人が描かれているように、こうした犠牲者のことは座視してすませてよいのでしょうか。
この問題のわかりやすいケースが、二〇一四年のノーベル平和賞受賞者のマララ・ユスフザイさんのことですね。教育などへの女性の権利を訴える活動をした結果、「欧米の文化お推進した」としてタリバンから銃撃されてしまいました。彼女のことをこんなふうに「欧米の手先」扱いしているのは、タリバンみたいな過激な人たちだけでなくて、現地の伝統的な大衆にも多いのです。では、それがそのコミュニティの「共通善」なのだからと言って、マララさんの訴えに耳を貸さなくてもいいのでしょうか。
あるいはこんな仮想例はどうですか。コミュニタリアン・リベラルは、もちろん右翼と違って移民に寛容です。では私が移民となって少女婚のあるコミュニティに移り住み、現地の慣習に従って本人の意思にかかわらず少女と結婚し、彼女が浮気した現地の慣習に従って彼女を殺害てもいいのでしょうか。先進国の価値観を押しつけることなく、そのコミュニティの「共通善」を受け入れて同化しているのですから、コミュニタリアンの立場からすれば、誉められこそすれ非難されるいわれはないことになりませんか。
ブレア=クリントン日本民主党政権のコミュニタリアン・リベラルの姿勢では、先進国の主流コミュニティに向かっては、同性愛も中絶も認めろ、女性差別児童虐待もするな、排外主義はだめだと言って、しばしば伝統的な価値観を否定する一方で、移民や発展途上国(いまや十分に工業国になった国も含む)のコミュニティに関しては、同性愛抑圧や女性差別児童虐待や外国人イジメがあっても、文化の独自性などを理由にして、口出しを控える傾向があります。このことが、それぞれの先進国の主流コミュニティの大衆の中に、自分たちのアイデンティティを損ないながら、ヨソモノはばかり配慮するものとの反発を生み、その後の極右流行の素地を作ったことは間違いありません。

この問題は、井上達夫先生の「世界正義論」と、ほとんど同じ論旨のことを言っている。つまり、

  • どう考えても「それ」は不正義じゃないか?

といった「自明性」の問題を語っている。上記の引用にある例が非常にそれを示しているわけで、明らかに、「悪」じゃないかと思われる例をあげている。しかし、だとするなら、なぜそういった「悪」を過去の、その地域の人間たちは行っていて、今も行っているのか、または、それを今に至ってまで「気付けていない」のか?
つまり、そのように考えると話は逆になってくる。なぜ、現地の人の「理性」は、その問題を解決しようという方に考えが向かわないのか? なぜ向かわせられないのか? ようするに、こういた「リベラル」は、現地の人の理性を馬鹿にしているように聞こえてくるわけである。こんなこともわからないのかと。
上記のようなことに、外部の人間として文句を言っていることを、問題にしているわけではない。しかし、だからといって上記を問題にしている人も、その現地の住民になって、そういった「問題」を解決するために、一生を捧げよう、と決意しているわけでもない。
例えば、リバタリアンは「自由でなければならない」と言う。その場合、なぜ「自由」でなければならないかを見ていくと、上記の「世界正義論」のような「根拠付け」がでてくる。人間は、科学的、合理的、理性的に考えて、

  • 正義

を実現していかなければならない。だから、「自由」でなければならない、と。ところが、最初の橋爪先生の引用を見ると、なぜ自由でなければならないのかは、

  • 神の「意志」に反したことはしてはならない

から、ということになっている。ということは、どういうことか? 「自由でなければならない」という「根拠」が、非科学的、非合理的なわけである。だとするなら、こういった人たちの「賛同」によって行われている、「自由」という状態を、どうして正当化できるのであろう?
上記の橋爪先生の「まとめ」は、かなり恣意的だと思っている。つまり、共和党だからといって、福祉を否定していない。それは「地域」がやれ、と言っているのであって、中央政府が口出しすることじゃない、というわけであろう。
つまり、保守派が言っていることは、「よく分からないことを分かっているかのように<はったり>をかまさない」という態度なわけであろう。エリートやインテリは、別に、その地域に住んでいるわけでもないのに、その土地の土着の慣習を止めろと、口出ししてくる。しかし、その土着の慣習を止めた途端、どういった権力バランスの崩れをもたらし、人々の「生活行動」に影響をおよぼすのか。それによって、その地域に住む人の「全体」の土地感覚として

  • よりよくなる
  • さらにわるくなる

のどっちなのか。ようするに、保守派は「不可知論」でやっている。不可知論に対して、上記の引用にあるような、「自明」な何か<だけ>を対置することは、むしろ、なにかを後ろに隠している、というふうにかんぐられる、というわけである。

しかもこの問題は突き詰めればもっと難しいことが出てきます。幼い頃から十五歳になったら神の生贄になるとされて育てられた子どもは、そういう運命に本当に誇りを感じて受け入れているかもしれません。中国が近代化するとき、纏足の禁止に抵抗したのは当事者の女性たちだったと言います。「彼女たちはむしろ纏足を社会の羨望、美、結婚、社会上昇を得るためのものと認識していた」そうです。すなわち、一見抑圧に見える風習を、当事者がフリでゃなくて、本当に内面化しているケースが往々にしてあるわけです。
ではこれらの風習を認めていいのかということも難しい問題です。当人の意識をほじくり返せば、やっぱり奥底には苦痛を避けて生存を求める欲求があるかもしれません。いったい「自由」が仕えるべき本人の願望は、本人の意識のどのレベルで見ればいいのでしょうか。

これもどこか、この前検討した「科学哲学」の「正常倫理」に近い問題のように思われる。こういったことを言っている人は、まさか、自分が「精神障害者」だとは思っていない。自分は「正常」だと思っていて、自分の

  • 回り

はみんな、「どこかしら<異常>だ」と思っている。つまり、その異常のレベルを「判断」するのが、自分の機能であり役割なのだから、もしも、自分が「異常」だったら、この判断を正しくできない、ということになってしまう。
上記の引用の「意識のどのレベル」という言い方も、ある意味では、その当人を馬鹿にしたような発言なわけですよね。自分にとって、どうあるべきかを、ちゃんと考えられない人だから、代わりに私が「なにが正義か」を考えてあげます、と言っているようなものですから...。