政治目的論

柳田國男ではないが、あらゆる文化は周辺に広がっていく。流行は遅れて、周辺に広がっていく。ということは、どういうことかというと、周辺には、

  • 過去の私たち

が残っている、ということになる。例えば、日本の田舎に行くと、その土地の人は私たち都会の旅行者に向かって「笑って」、声をかけてくれる。都会にいても、田舎者は田舎者同士だと、にかっと笑って挨拶をする。そうすると、それはなんなのかな、となる。

内藤 でも、難民や移民をソフトに処遇する可能性をもつ地域がないわけでもありません。意外ですが、スコットランドには、かすかな可能性がありそうな気がします。スコットランドの人って都会の雑踏は別にして、田舎の道ですれ違うとみんなニコッと笑いかけてくる。スコットランドに生くとほっとします。今のスコットランド国民党は、むしろ真っ当なくらい社会民主主義の政党で、弱者に対する政策を充実させている。難民の受け入れに対しても積極的な姿勢を示しています。
中田 中東と同じですね、中東の人も顔が合うとみんなニコッとします。
内藤 しますよね。
中田 ただパキスタン人だけは笑わないので、最初は怒っているのかと思ったら、別に怒っているわけじゃない。どうもインド亜大陸の人たちは意味がないと笑わない習慣のようですね。中東の多くの人は遊牧民ですから、定住せずに家畜と一緒に移動しますよね、国家や国境意識が薄いのもそのことと関係が深いわけですが、彼らが移動する土地は、砂漠だったり、かなり自然条件が厳しいですから、人と出会ったらお互いに助け合わないと死んでしまう。代々助け合って生きてきたので、人と出会ったらまず、「私はあなたに敵意はありません、助け合いましょう」という意思を示す。厳しい環境の中では、それがもっとも合理的なのです。

ようするに、「田舎の文化」というのは、日本の外から流れてきた外国の文化であるということになり、ということはどういうことかというと、つまりは、「遊牧民」の文化が田舎に「残る」という形になるわけである。
では、他方において「都会」とは何か、ということになる。
この場合、都会というのは、政治の中心ということであり、「首都東京のこと」を言っているわけであるが、ここにおいては、あらゆることの

  • 目的

が存在する、ということになる。それは何か? 言うまでもない、

  • 政治の正統性=正当性

である。政治の目的は「政権の維持」である。つまり、オートポイエーシスである。政治があらゆる政治的リソースを注いで行うのは、政治権力の

  • 持続可能性

であって、それ以外に興味がない。政治は革命を最も嫌う。たとえそれが、「国民の利益」になったとしても嫌う。そういう意味で、政治と民主主義は相性が悪い。
そういった場合、都会における「慣習」とは、どういうものになるか。まさに、「二元論」である。ホンネとタテマエの。都会人の話す言葉の特徴は、その

  • 体裁

は、「政治の目的=政権の維持」を体現していなければならない。そうでなければ、危険人物としてパージされるから。よって、あらゆる、その人の発言は、現政権の「応援歌」になっていなければならない。よって、その人は、ある「分裂」を体現することになる。その人の発言は一見すると、今の政権を応援しているように聞こえるが、他方において、その文言の端々に、

  • ホンネ

が見え隠れすることになる。つまり、あらゆる発言が、二重性をもってしまっている。これは、ある意味において、ジョージ・オーエルの「1984年」における、究極の管理社会における、人々の「慣習」だと言ってもいい。
まさに、ヘーゲルが考えたような「有機体国家」においては、人々は、「自分」という一つの独立した組織ではない。あくまでも自分は、国家という骨組のどこか一カ所を支えているにすぎず、自分独自の意志があると思っていない(まさに、「一般意志」とはこういうことであろうw)。
例えば、日本の歴史において、戦国時代の末期に、豊臣秀吉によって天下統一が行われた後、何が起きたかというと「刀狩り」なのであって、つまりは、武装解除なわけである。これ以降、日本政治は官僚政治となっていく。官僚は、そもそも自警団をもっていない。その自警団を国家に行ってもらう。彼ら「官僚」は、国家に諫言を行う立場なわけだが、それを行うためには、それを行っても自分が殺されない、という担保がなければ行えない。しかし、それを行ってくれるための、自らの暴力組織をもっていないのだから、必然的に、国家に依存することになる。
今の世論調査をしても、例えば、安倍政権が韓国との従軍慰安婦問題での、かっこつきの「和解」を実現したことで、政府が韓国との「雪解け」をアッピールしたいという「空気」を敏感に感じて、韓国への「好感度」が上がるわけだが、逆に、中国に対しては、そうならないというのは、まさに、日本国民が

  • だれの顔色をうかがっているのか

がよく分かるわけである。
こう言うと、都会人は本当は心の底には「善意」があるんじゃないか、と思うかもしれない。しかし、それはそうじゃない。その「ホンネ」は、むしろ、政治的ホンネなわけである。たとえば、富裕層は貧困層に払う税金が一円でも安くなれば、俺の税金も少なくなるよな、といったような。それは善意ではなく、より「動物」的なホンネに還元されていく。ちょうど、無菌培養された試験管ベビーが、外の環境では生きられないような、もやしっ子に育っているくせに、やたらと、田舎の屈強な野生児を

  • 差別

したがる、といったような。
田舎は「自然」が厳しいので、必然的に人間は助け合うが、都会は比較的、自然が人工的に管理されていて、生き易いと言えなくもないが、

  • 人間の競争が厳しい

ので、どうしても、人間を見て「ニコッ」とできない。もちろん、そうするのだが、うまくできない。ニセモノの笑いしかできない。常に、腹に一物を抱えて、ホンネとタテマエの

  • 二元論

で生きているので、なにをしゃべっても、結局、この人はなにが言いたいのか分からない(そもそも、村上春樹の小説がそうですよねw)。どんなふうにしゃべってみても、そこには、「差別」感情が隠微に隠れて、噴出してしまい、ドス黒い何かがだだ漏れてしまう(というか、それを「芸術」と言って、価値化するわけだがw)。まあ、階級社会というのは、そんなものなのであろう...。