観念「以前」と存在論

有名なプラトンイデア論に、私たちは、あらゆることを最初から知っている、というものがある。つまり、どんな「発見」も、すべては「想起」なのだ、と。私たちは、目の前の出来事を、「発見」するのではない。

  • 思い出す

のだ、というわけである。こんな馬鹿な話はあるか、と思うかもしれない。しかし、どうして知らないものを知ることができるのであろうか? なにかを知るということは、すでに知っていなければ、それが何なのかが分からないのだから、ようするに、最初から知っていた、ということになるのではないか。
このアポリアを解決する方法として、「類似」の考えがある。この前、ロックの観念論の話をした。その場合、ある目の前の対象との「ファースト・インパクト」においては、私たちは、それを「それ」として単に、受容するしかなかったが、それ以降は、その

  • 差分

にだけ注意をすればいい、と言った。なぜなら、その差分以外は「以前と同じ」なのだから、その部分は、

  • 以前を想起すればいい

ということになるからである。しかし、そういうふうに言うなら、この場合の「ファースト・インパクト」も同じことなのではないか、と考えることもできるわけである。
確かに私は、「それ」に始めて出会ったわけで、それを「ファースト・インパクト」と呼ぶのは正しい。しかし、

  • 似たような存在

に今まで出会わなかったか、と言えば、大抵の場合は、そんなことはないわけである。
毎日、パパ、ママ、ボクの世界で生きていた赤ちゃんが、ある日、親戚のおじさんが尋ねてきたとき、確かにそのおじさんは「ファースト・インパクト」ではあるが、どこかしら、パパ、ママに似ていなくもない。つまり、ここに

が効く、というわけである。
こういった「世界観」というのは、よく考えてみると、恐しい認識に思えてくる。さて、私たちはいつ「それ」を知ったのだろう? 上記の認識に従うなら、今、私が「それ」を知っているということは、なんらかのアナロジーにおいては、以前から、それの「類似物」を知っていたということになるし、というか、今それを知っているということが、まるで、

  • 生まれた最初から

その「類似物」を知っている、つまり、アプリオリに「何か」を知っている、とさえ言いたくなる。ようするに、ここにあるのは、一切の

  • 基礎付け主義

の否定ということなのだ。私たちは、あらゆることには、その「基礎」といものがあって、その応用によって、今この世界が実現している、と考える。そうでなければ、土台のしっかりしていないところに、応用もないんじゃないのか、と考える。しかし、上記のアナロジーにおいては、一体、何が基礎なのかが、よく分からない。なにか、アナーキーな、混沌とした、ごちゃごちゃとした、赤ん坊の「世界」というものがあって、それが、大人になるに従って、適当に生きやすいように

  • 整理

されてきた「だけ」のようにさえ思えてくるわけである。
こういった考えを、社会学などでは「再帰的(リカーシブ)と言うそうであるが、常に、その瞬間、瞬間で、その「基礎」が

  • 作り直される

ので、一体、いつの、どの時点のものが「基礎」なのかが、さっぱり分からない、といったようなものだと考えればいい。
こういった考え方は、カントというより、ヘーゲルに近い、と言えるだろう。
こういった認識の延長において、ハイデッガー存在論を考えたとき、その「存在」とは、どんなものだと考えられるだろうか?
私は、ハイデッガーの言う「存在」というのは、一般に思われているような思弁的なものではなく(神学的なものではなく)、より

  • 科学的

な認識に関係していたのではないか、と考えている。つまり、こういうことである。
ある隕石が、「たまたま」地球に衝突しなかった、とする。しかし、この隕石は、宇宙空間を、ある

  • 周期

で、ぐるぐると回っていることが分かっていた、とする。そこで、ある科学者は、この隕石の周期と、地球の周期を「計算」してみた、とする。すると、ある驚くべきことを発見した。つまり、およそ、200年後の、ある日の昼下がりに、その隕石は、また、ぐるっと一周してきて、今度は、「ちょうど」どんぴしゃりで、地球に衝突してしまうことが

  • 分かってしまった

というわけである。
あなたは「まさか」と思うかもしれない。いくら科学が発達していると言っても、ここまで正確に計算できるわけがない、と。
しかし、同じことなのだ。
ハイデッガーは「技術」にこだわった。そのことは、人間が作ったモノが、人間の技術であり「論理」を、内包していなければ、絶対にありえないような、作られ方をしていることに驚いたから、と言える。
そして、その延長に、人間の「不安」を想定している。つまり、現代人が「不安」になることと、彼の「存在論=神学」と、現代テクノロジーの「技術」は、それぞれが補い合い、補完しあう関係にあることを示唆しているわけである。
ハイデッガーの言う「存在」は、科学が「予想」する未来であり、今はまだ実現していない未来である。なぜ今、目の前に「ない」ものが将来の、ある瞬間において、目の前に「現れる」のかと言うと、そう科学が「予言」するから、なのであり、事実そうやって、私たちは、自らが作るモノに「技術」という、人間が関わらなければ、ありえなかったような「論理」を内包させる。
なぜハイデッガーが「存在」にこだわるのかは、科学がなぜ「予言」してしまうのかと同じ位相にあるわけであり、その「予想」が「不安」と区別できない構造をもっている。つまり、私たちが「不安」なのは、私たちが

  • 予想<できる>

という、潜在的な能力をもっている、という認識と深く関係しているわけである...。