冨田恭彦『観念説の謎解き』

確かに、私たちは、「認識マシーン」であり、常に外界の「変化」を知覚しているわけで、そういう意味においては、私たちは外界を認識している。
しかし、この場合、その外界なるものが、「実際にはなんなのか」といったことは、よく分からない問いではある。このことを、カントは「物自体」と呼んだわけであるが、私たちがある対象を視覚によって、知覚する場合、「それ」と指示することは自明のように思われる。しかし、言うまでもないが、私たちが認識マシーンだという意味は、私たちの「知覚マシーン」が外界をどのように知覚したのかを意味しているに過ぎず、それと、その「対象」が、「実際にはなんなのか」とは、必ずしも一致しない。例えば、ある動物は、この世界を白黒の視覚で見ている、ということが分かっている。そうすると、人間はカラーで見ているのだから、どうもその動物と、私たちでは、「それ」と指示しているものが違う、とは言えないだろうか。例えば、私たちとその動物は同じものを見ながら、一方はその色の変化を認識し、「それの色が変化した」と解釈する。他方は色の変化を理解しないのだから、「それは何も変わっていない」と解釈する。同じものを違ったように解釈しているということは、それは「同じ」だと言っていいのだろうか? 例えば、人間が色と認識できる光の波長の範囲は限られている。それを越える光を人間の眼球は認識できない。しかし、そういった範囲の光を認識できる眼球をもっている動物は、その「変化」を理解できる。
しかし、このように考えることはできる。確かに人間の眼球の能力には限界があるが、人間が作り出した「物理学」は、完全に光の性質を記述できる。人間の眼球が把握できない波長の光であっても、特殊なレンズを使うことによって、人間以外の「別の認識マシーン」によって、その光の

  • 状態

を記述できる。つまり、この「情報」が、そのもの、「それ」だと言ってもいいわけである。言うまでもなく、この機械で作った「認識マシーン」も、人間の眼球や他の動物の眼球のように、なんらかの「特徴」があるわけで、測定できる光とそうでない光があるだろう。しかし、たとえそうであっても、人間が作り出したこの「物理学」によって、完全に光の性質が記述可能ならば、そういった「測定器」の違いは、大きな問題ではない。
私たちがある対象を認識するというとき、眼球マシーンによるならば、それは目の前の空間を、光という波がつき進んで眼球に反射することによる、その光がもっていた「情報」から、そう解釈した、ということになるであろう。つまり、その光の連続的な情報から、私たちの頭の中の神経系が、そこから「それ」という対象を「再構成」した、ということになる。
しかし、だとするなら、その「再構成」が、実際のところ「それ」が、「実際にはなんなのか」を直接には反映している、ということを示しているとは決定できない。なぜなら、私たちに入ってくるその光の情報が、もしも、だれかによって操作されていたとするなら、私の目には、なんだって「写らせられる」ということになるのだから。
しかし、そういうふうに言うなら、わざわざそういった「操作」を行わない限り、一般的に光は、非常に「単純な法則」によって反射しているだけ、と考えられるわけで、かなり単純な、なんらかの

関係によって、この世界を写しとることができる、とも言えるわけである。
たとえば、こんなふうに考えてみよう。私たちは、光の波長というものを「測定」できる。もちろん、水面を伝わる波の波長も測定できる。その他にも、いろいろな今の物理学的な「存在」を「測定」できる。しかし、もしもこの宇宙には、ある宇宙人がいて、その宇宙人は人間が今だに「測定」に成功していない何かを「測る」ことに成功していたとするなら、その宇宙人は、この世界を、今の私たちとは「違って」把握している、ということになるのかもしれない。
その宇宙人にしてみれば、「それ」がなんであるのか、については、私たちとは違った形で情報化しているのであろう。しかし、たとえそうであっても、その宇宙人にとっても、この宇宙に普遍的に存在している「光の波長」の性質というのは変わらないのではないか。だとするなら、その宇宙人と人間は、当然、共通した、外界把握をしている部分も存在する、ということになるのだろうか。
もう一つ、違った側面から考えてみると、私たち人間は「想起」をする。つまり、いつかの記憶を思い出すわけである。これは、ある意味において、測定マシーンが以前に測定した情報を、再度、表示している、とも考えられるであろう。
だとするなら、私たちには、ある「錯誤」が生まれる。その「情報」が「もの=それ」として存在していると考えるなら、「それ」はその「情報」のことだった、と言えないだろうか。
私たちはその視覚「情報」から、ある「モデル」を構成する。そして、その「モデル」に適合するものを、「それ」と呼んでいる。つまり、ここで、ある逆転が起きている。私たちは最初、「それ」に出会い、知覚マシーンはそれを知覚したわけだが、次第に、私たちは「それ」か「それ」でないかを「判定」する、「<それ>判定マシーン」に変わっていくわけである。
しかし言うまでもなく、その心の中にある、「それ」判定マシーンは「それ」ではない。それは「それ」を判定できるのだから、もうそれを「それ」と言ってもいいんではないかと思うかもしれないが、言うまでもなく、「それ」判定マシーンは、私たちの心の中にある、なんらかの判定ゲームを指しているにすぎないわけで、それが「それ」であってたまるか、というわけである。
ここにおいて要求されているのは、なんらかの「同一性」である。私は知覚をするわけであるが、前に知覚した何かと、今知覚しているものとを、なんらかの意味で「同じ」と言うことを可能にする認識とはなんなのか、というわけである。言うまでもなく、視覚情報は、たんなる光の波でしかないわけで、その光の周波数の情報から、なんらかの「対象」の存在を浮かび上がらせていき、そして、それらの過去の知覚情報とも突合していくことで、ある「存在」の認識的再構成を行うことになる。そのことは、ある対象が、その時々の視覚情報に対して、「同一」といった対象情報を、そのようにして連続に「構成」していくわけで、問題はその

  • 判定条件

ということになるであろう。しかしもしもその「判定」を行う「方法」が完全なものだとするなら、その情報そのものが、もはや「それ」と言ってもいいのではないか、ということにならないだろうか。ある「方法」によって、「それ」か「それ」でないかが判定できるとするなら、その方法は、もはや、「それ」を定義している、必要十分条件である言っても間違いではない、ということになるであろう。
しかし、言うまでもなく、実際に目の前に存在する「それ」と、私の心の中で作られた「それ」の判定方法が、同じわけがない。前者は実際に目の前に存在する「物質」であって、後者は、私の心の中で構成された「情報」にすぎないのだから。
うーん。
確かにそうなのだが、この話はそんなに簡単なことではないように思えてくるわけである。私は毎日、病院のベットで寝ているだけの毎日を送っていたとしよう。そんな私のために、寝ながらにして、

  • 学校に通える

ツールを誰かが考えたとしよう。つまり、ヴァーチャル・リアリティである。私は本当は病院のベットで寝続けているのに、まるで朝、自分の部屋で目を覚まして、朝御飯を食べて、靴を履いて、登校する「イメージ」が脳内で流れる。そして、登校途中で出会う「友達」と挨拶までできてしまう。まさに、恋愛美少女ゲームのように。
私は確かに、病院に寝ている。しかし、私は今自分が病院に寝ているということに気付かない。実際は病院で寝ているのに、まるで、朝起きて家を出て、学校の授業を受けている、としか思えない「認識」をしている。
しかし、こんなふうに言うと、違和感をもつ人がいるかもしれない。でも、実際に臭いをかいだり、ドッチボールが顔に当たったり、おもいっきり走ったときの足の裏の感触だったり、こういったものが別にベットの上で再現されるわけじゃないのだから(病院のベットの上を走るわけがない)、やっぱりヴァーチャル・リアリティは、「なんちゃって」なんじゃないか、と。
しかし、そういうふうに言う人は、本質的に分かっていない。確かに、私たちが実際に外界を感覚するときはそうかもしれない。しかし、そういった経験を後に「想起」する場合を考えてみてほしい。想起できるということは、その感覚は

  • 情報

になっていなければならない。つまり、最初の直接的経験の場面は、私たちがもっている実際の「感覚器官」のフル稼動なしには、その感覚は発生しえないが、このことが、上記における「想起」の場合の情報の保存のされかたと、その「想起」の動きをシュミレートできるなら、その違いはないわけである。
確かに光が波として電波していく現象は物理的実体であるが、それを私たちの感覚器官が「測定」された「結果」は、

  • 情報

である。測定とはそういうもので、この物理的実体と情報を媒介しているものが、知覚マシーンだ、ということになる。では、知覚マシーンとは何をしているか? 知覚マシーンとは、ある「定常性」を示している。それは、基本的には「物理法則」の延長にあるもので、基本的に同じ物体は、同じ運動を行えば、同じ動作になる、ということと同じで、その「同じ」という性質を使って、その

  • 差異

の大きさを、その運動の違いの大きさとして計算するわけである。それだけ違っているということは、前とそれだけの違いがあるということを意味するわけで、基本的に測定とは、こういった「基準」に対する差異を問題にしている。
しかし、そういった知覚マシーンがどこまで受動的なものなのかは怪しい。例えば、視覚を考えても、まずもって、片目だけでは遠近感覚がつかみにくい(二次元情報だから)。よって、私たちはかなり「うまく」両目を使っていて、一方を他方と少しずらして見ることによって、その視覚情報の「差異」を使って、脳内で、遠近感覚を「構成」している、と言われている(両目の二次元情報を、その視点の差異によって、三次元情報に「補完」している)。同じように、音も、さまざまなノイズの中から、私たちが日常において重要と思われる情報を、なんらかの仕組みによって「強調」して、脳内情報にしている、と言われている。
つまり、こういうことである。私たちは外界の情報を絶えず受信しているうちに、その情報から、なんらかの

  • モデル

を想定するようになる。同じ人間を比較的強調されて「情報」とするとか、同じ人間の声を比較的強調されて「情報」とするとか。そうすることによって、今度は、外部から入ってくる視覚情報や聴覚情報を、そのモデルを使って、

  • あらかじめ

受信時に、そういった「強調処理」を施されるように、チューナーをスタンバイさせて受信するようになる。つまり、受信機のパラメーターをアプリオリに、人間用にカスタマイズするわけである。
このように考えたとき、私たちが一般に「知覚}したものとしての記憶であり、想起するものというのは、常に、なんらかのバイアスのかかったものであり、「再構成」された何かだと考えるべきなのであろう。私たちは、そういった情報を「正確」であることによって有用としているのではなく、「役に立つ」ことによって有用にしている。最も重要な、相手の目の表情をより強調して情報として保持しようと思うことは一般的であり、合理的だ、ということである。

この点で、それは、パイナップルの説明をいくら詳細に行ってみても、パイナップルを味わったことのない人にパイナップルの味の観念を与えることができないのと同じである。

これが経験論の基本にある考えだが、しかしこれも「情報」だと考えるなら、味や臭いであっても、その刺激を与えるなんらかのスペクトラムのような測定の方法が、はっきりすれば、光の波長が同じものを、眼球にぶつければ、同じ写像を、どんな人の脳にも与えられるんじゃないかと考えるように、同じような刺激を与えられるのではないかと予想はされるのだろうが、そもそも、その刺激として「構成」されるもの自体を、

  • 実際の自然界にあるもの

を考えることなく想像することは合理的なのか、という話はある。

ロックが『人間知性論』第二巻で提示した観念形成説からすれば、観念の源泉は「経験」である(観念経験論)。そして、心は、経験から獲得された単純観念を材料として、これを組み合わせたり比較したりすることにより、他の観念を形成する。ロックのこの考えが彼自身の心の營みにも妥当するとすれば、彼が粒子仮説的な物そのものを考えるとき、その物そのものの観念もまた、経験から得た諸観念のうちのあるもの(それらは、もともと、経験的対象の性質であった)を、ある仕方で組み合わせることによって形成されたものと見なければならない。前章で述べたように、そもそもロックが『人間知性論』第二巻において、観念の獲得・形成過程を論じる際に詳しく論じるのは、彼が重要とみました諸学問の基礎的観念である。そして、粒子仮説的自然学は、彼が重視した学問の一つである。したがって、『人間知性論』第二巻では、粒子仮説的「物そのもの」が持つべき諸性質の観念が、とりわけ詳細に論じられている。
ところが、新たな「物そのもの」の観念が、経験から獲得された諸観念からどのように形成されるかを考察する際に、われわれはある重要な問題に直面する。それは、心像論的観念理解の妥当性に関わる問題である。
ジョージ・バークリやデイヴィッド・ヒューム(一七一一 - 七六)やジョン・スチュアート・ミル(一八〇六 - 七三)の影響もあって、ロックの言う「観念」は、伝統的に、可感的(sensible)・心像的なもの----つまり、感覚ないし(記憶や想像における)心像(mental image)、もしくは、それに類するもの----とみなされてきた。「観念」をこのように感覚もしくは心像とみなす立場を、「心像論(imagism)」と言う。その後ロック学者の間では、ロックは可感的なものと可想的(inteligible)なもの(概念[concept]的なもの)のいずれをも「観念」として扱っているとする見方が採られるようになったが、それでもなお、可感的観念と可想的観念との関係や、ロックの観念説全体の整合性については、いまだに十分な検討がなされてはいない。しかも、他方では、ロックが心像論的立場を採っていたことは「決定的である」とする解釈すら現れている。

現代から見直したとき、ロックが興味深いのは、バークリやカントの観念論の起源に、ロックの観念論がなっているはずであるのに、ロックの観念は「経験」を、言わば、

  • 材料

にして作られている、と言っていることであろう。そういう意味で、バークリやカントとまったく違っている。というか、逆に、ある疑問が湧いてくるわけである。つまり、なんでロックは「観念」という言葉を、わざわざ使わなければならなかったのか、ということである。
ロックの言う「観念」は、バークリやカントとまったく異なる。というか、それは「経験」を前提にしていると言っているのだから、そもそも最初から、経験がなければ始まわない、というわけで、ある意味において、私たちが今、考えている

  • 観念論ではない

わけで、これはむしろ、経験論と言った方がいい、ということになるであろう。ロックの言う「観念」とは何か? これは、ロックが「物そのもの」と呼んでいるものが一体、なんなのか、というふうに考えた方が分かりやすい。この表現は一見すると、私たちがカントを読むときに登場する「物自体」のことのように思えてしまうが、それとはまったく異なる。ロックの言う「物そのもの」は、どちらかというと、古代ギリシア自然哲学における、「原子」に近い。
確かに、私たちが、この世界を見るとき、色があって、物体があってとなっているわけであるが、現代の最新の素粒子物理学でも、私たちが実際に見ている「それ」は、原子や素粒子で構成されている、ということを知っている。実際に見ることで私たちが「それ」と言っているものと、そのものが「実際はなんなのか」は、こういった関係になっている、という分析なのであって、そういう意味では、ロックの言っていることは終始

  • 現代物理学の中の話

と解釈できるわけである。
上記の私の議論を思い出してほしい。私が「それ」を見るということは、私は「それ」を以前に見ていることを意味する。なぜなら、今、それを「それ」と言えているのだから。しかし、私は「それ」に対する、ファースト・インパクトを終えた後の今において、最初のような手続きを踏んで、それとまみえることはない。どうなるかというと、私は、上記で私が言ったように、「それ」に対しての、なんらかの

  • モデル(=観念)

を心の中にもっていて、そのモデルとの「差異」を見ているわけである。なぜそうするのか。こちらの方が、「コスパ」がいいからである。常に、なんらかの「差分」にのみ注目することで、私たちは情報量の節約を行う。以前と同じところに注目することは、以前の情報を必要であれば「想起」すればいいので無駄だ、ということになる。あくまでも「差分」が、今回の新しい情報ということになり、むしろ、ここにだけ注目すれば、今回得られる情報としては、必要十分だ、というわけである。
どう思われたであろう?
つまり、バークリやカントが考えたような、「観念論」のフレームというのは、必要なのだろうか?

A・A・ルースをはじめとするバークリ学者たちは、観念としての世界が心の中にあるということを、われわれが親しんでいる「物」の世界が今われわれが思っているようにあるということと同一視した。それは、あまりにも明白に、そのとおりである。なぜなら、観念論を採ったからといって、物が見かけ上それまでとは異質なものに変化うるわけではないからである。この点は、ある出来事と別の出来事との関係を捉えるのに、因果関係ではなく記号関係を採用することにしたからといって、それらの出来事の見かけが変わるわけではないというのと同じである。

この指摘はなかなか重要なところを突いていて、ようするに、観念論を採用しようがしなかろうが、「それらの出来事の見かけが変わるわけではない」というなら、私たちはひとまず

  • より単純なモデル

を基準に考えていた方が、いろいろと思考の効率上、「コスパ」が高いんじゃないのか、というわけなのである(まあ、ロックの観念論の立場からバークリやカントの観念の使い方を見たら、単純に「矛盾」だよねw だって、経験論じゃなくなっているわけだから、そういう意味では、バークリもカントも「神学」なんだよね)。
いまさら言うまでもないが、ハイデッガーの「存在」概念は、カントの「物自体」と非常に関係している。私がハイデッガー流の「存在論」が大嫌いなのは、そういったところにあって、ようするに

  • 存在という言葉を本当に使う必要があるのか?

が、うさんくさい、と言っているわけである。「存在」は、なんらかの「深い」ことを言おうという文脈において、インテリが使うわけだが、その「意図」がうさんくさいのだから、やめた方がいい、と言っているわけである...。