長月達平『Re:ゼロから始める異世界生活』

私たちは、儒教的な倫理社会や、任侠の人倫的正義は立派だと思うし、映画などを見て「あこがれる」側面があることを否定はしないが、一般に私たちはそこまで、性根が座っていない。つまり、それはタテマエであって「ホンネ」は、

  • 人間は簡単に死ぬ

のだから、そういった威勢のいいことを言ってみても、結局は自分のことが「かわいい」し「大事」なわけだ。まずは、自分の命を守ることが大事なのであって、そういった「正義」とか「倫理」といったものは、そうやって、自分の命を守れた後に、

  • 余力が残っていたら

まあ、考えてもいいかな、くらいにしか考えられない。それを「偽善」と言うのは簡単だが、じゃあ、実際どうすればいいのだろうか?
現実の世界は「残酷」だ。そして、それ以上に「理不尽」だ。あらゆることは確率的に発生する事象に過ぎず、悪は善を滅ぼす。そすて、実に簡単に善は悪によって滅ぼされる。言わば、この世界の「半分」は悪が善に勝ち、善が悪に勝つのは、半分の五割に過ぎない。
そんな残酷な現代社会は果して生きる意味などあるのだろうか?
掲題の小説は、まさに「異世界召喚ゲーム」と主人公が自称しているように、現代社会のたんなる「ひきニート」が、異世界に行って、なんかを行う、というに過ぎない。しかし、一つだけ違うのは、

  • ゲームリセット

が、主人公の「死」をトリガーにして発生する、というわけである。一般的な、RPGを考えても、複数ある未来の「どれか」が実現されるのかは、主人公の「選択」のたびに、変わっていく。しかし、基本的に、そのストーリーは似ているわけである。なぜなら、ここで変化の外部要因となっているのは、主人公の異世界人の

  • 判断の微妙なズレ

だけであって、それ以外は同じと「考える」というのが、RPGの基本だからだ。
しかし、アニメ「シュタインズ・ゲート」においても、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」においても、ゲームリセットというのは原理的には

  • 何回でも

繰り返すことが可能とされているが、しかし、ものには限度というものがある。私たちは確かに、方程式といったら、いくらでも多くのパラメータを考えることができるが、じゃあ、その方程式を自分の手計算で解いてみてくれ、と言われると困ってしまう。そんなものは、コンピュータででもなければ、真面目に計算なんてやってられるわけがない。
ゲームの「中」においては、そのゲームのプレーヤーは「外」の人に過ぎない。つまり、ゲームの中は常にリセットがかかるたびに、最初の「初期条件」に戻るに過ぎないが、ところが、

  • 主人公

は、常に過去の記憶をもっている。それは、アニメ「僕だけがいない街」で、過去から現代に戻っていた主人公が、

  • なぜか

過去の記憶をもっている、ということと同じだと考えられる。
つまり、主人公のHPは、どんどん大きくなる。他のプレーヤーはいつまでも変わらないのに。やたらと経験値が高い。始めて出会う「みんな」の個人情報を知りまくりであって、逆に気持ち悪いわけである。
しかし、こういった設定であっても、一つだけ、いい点がある。それは、主人公の「悲惨な死の結末(=バッド・エンド)」を

  • リアル

に描けるわけである。なぜなら、そういった「鬱展開」をたとえ描いても、

  • ゲームリセット

がかかって、もう一度やり直せばいい、ということを意味しているに過ぎないから。
つまり、どういうことか?
私たちの人生は、理不尽かつ悲惨なのだが、RPGは、その悲劇を

  • 確率論

に還元してくる。つまり、その確率論という「分布」の中に、

  • 倫理や任侠

の価値が「実現」されるパターンも含まれる。主人公は、別ルートにおける、自分を回りで助けてくれたキャラたちへの「恩義」を返すために、何度もこの悲惨なゲームを繰り返す。つまりは、その

  • メタ的行動自体

が価値がある、そう思われる「からくり」になっている、というわけである...。