佐藤智恵『ハーバードでいちばん人気の国・日本』

以前、日本がここまで治安がいいのはなんなのか、といったことを考えようとしたとき、私にはむしろ、それは極端な議論のように思えた。
日本は確かに、治安がいい。しかし、その治安のよさは、日本の国民が「あっけらかん」なまでの「自由奔放」だからではなく、なんらかの「抑圧」がある。
それは、例えば、戦前を考えてみてもらえれば、非常によく分かるのではないだろうか。時に、太平洋戦争から敗戦までにおいて、国民は赤紙によって、どんどんと死んで行った。ここには、間違いなく、なんらかの「抑圧的」なプレッシャーがあった。
戦前と戦中を繋ぐもの。
それが天皇である。戦争中。赤紙で連れて行かれた人たちが死んだのは、天皇のためであった。
それは、一種の宗教であった。
天皇は神。
以前に、吉田松陰が、どうやって世界征服を行おうとしていたのかについて書いたことがあるが、ようするに彼は、日本国民が

  • 命を捨てれば

勝てる、と考えた。つまり、忍者である。スパイである。どうやって、日本国民に自ら命を投げださせるか。
おそらくそれは、「宗教」だったと思われる。
つまり、日本人はなんのために生まれてきたのか、という問いである。なんのためか? 日本のため、だと。それは、どういうことか? 教育勅語にあったように、ひとたび、日本が「危機」になったら、自らの命を投げうって、日本の危機を救うため、というわけである。
では、ここで日本の危機とはなんだろう? いや、もっと直截に言うなら、何を大事にしなければならないか? それは、なにを「崇拝」するのか、何を「あがめる」のか、何を無礼のないように、「礼儀正しく」いなければならないか。
例えば、天皇に対しては、絶対に無礼があってはならない。どんな場所でも、そうであってはならない。天皇への徹底した、「へりくだり」の骨の髄までしみこませる、「折檻」は、例えば、次のように考えると合理的だと分かる。
天皇が任命した役職は、言わば、天皇の「お願い」によって行われていると考えるなら、もはや、天皇と同じレベルにまで、あがめ、へりくだらなければならない、となる。つまり、役職そのものが、天皇と同レベルにまで、到達する。
例えば、大西巨人の『神聖喜劇』は非常に戦前を考える上で重要である。主人公の東堂太郎は、陸軍の階級としては下っ端であるが、大学出であり、学歴も高い。他方、大前田は典型的な田舎者であるが、東堂太郎の上司にあたる地位にあり、徹底的に東堂太郎を「いじめる」わけである。
ここには、非常に重要なポイントがある。大前田は東堂太郎を徹底的にボロクソに、折檻する。しかしその場合、大事なポイントは、学歴という意味では、大前田より東堂太郎の方がずっと高い、というところにある。
ではなぜ、東堂太郎は大前田に従わなければならないのか。それは、大前田の役職が東堂太郎より上だから、と言うしかない。天皇が大前田の方を東堂太郎より上の役職につけたということは、それが天皇の意思なのだから、それに逆らうことは、天皇に逆らうことと同じと見做され、徹底して折檻をされる。
しかし、この作品の興味深いところは、話がこれで終わっていないところにある。東堂太郎は、ある軍事教練で、大砲を見事に操り、的に命中させる。それを、大前田が「賞賛」する場面がある。作品の文脈から考えるなら、東堂太郎は大前田に学歴の差から、妬まれて、さまざまな「いじめ」を受けたと考えやすい。しかし、そういった文脈だけでは、ここの意味が理解できない。
大前田とは何者なのか?
彼はまさに、日本の田舎で農業をやっていた、農業共同体の慣習をもっている存在だと考えられる。つまり、大前田は、東堂太郎の射撃の技術に素直に驚嘆した、ということなのだと思う。つまりそれは、農業共同体において、それなりに農作業に秀でた人を、賞賛することと変わらない。つまり、ここに日本的な共同体の特徴がある。
大前田は、確かに学歴コンプレックスがあったのかもしれないが、他方において、彼には彼なりの、なんらかの「実践的」な場における、

  • フェアネス

をもっていた、ということなのである。
農業共同体における「神」とは、豊作を祈念する神であり、言うまでもなく、豊作にならなければ、旱魃になれば、村は死ぬ。そういう意味で、神への祈りは「真剣」である。ここを、ごまかす、嘘をつくなら、そいつが村八分にされてもしょうがない、というくらいに、本気で祈る。それこそ、まさに、戦前の天皇への恭順の真剣さに繋がるものがある。
末端の指揮官までに浸透している、天皇への「無礼」への、ヒステリックなまでの「怒り」や「懲罰」は、こういった豊作祈願の「真剣さ」の延長に考えられるように思われる。私たちに「飢餓」への「恐怖」が宿るとき、それは、天皇への「無礼」への「怒り」や「懲罰」という

  • 暴力

へと繋がる。
そういう意味で、日本人は「温和」なのではない。ある種の「ヒステリー」や「暴力」を、そういった側面として、裏側としてもった上での、「温和さ」だと言ってもいい。日本はユートピアなのではなく、一つの生態学的ななにかだ、ということである。
今週の videonews.com で、鈴木邦男さんによる、日本会議への評価が聞けるが、大事なポイントは、その日本会議の中核を形成しているの言われる、生長の家の分派の人たちが、谷口雅春の教えを今も忠実に従っている、自己修養の人たちだと言っていることであろう。
おそらく、彼らは、現在の日本において、なんらかの「風紀の乱れ」のようなものを感じている。どこかしら、天皇への不遜な態度。無知ゆえの、無礼。こういったものに、なにかしら「物騒」なものを感じている。おそらくそれが、上記にあるような、

  • 神への無礼

に繋がるものとして、農業共同体における、神の「怒り」への畏れへと繋がるものとして。
つまり、私たち、日本人の世間的な視線を意識するとき、そういった「暴力」と区別のできないもののプレッシャーを常に、私たちは、どこかしらに感じている。だから、日本は「治安」がいい。つまり、私たちが本質的に世間を「怖がっている」から。
おそらく、リベラリズムというのは、こういった「感覚」がない人たちなのだと思っている。彼らは、基本的に高学歴であり、高い給料をもらっている。だから、彼らは

  • 傲岸不遜

だ。この前の、小沢議員への、古市憲寿氏の態度は、まさに、「高学歴」の若者の生意気さをよく表現していたわけであるが、彼ら高学歴連中は、絶対に他人に謝らない。なぜなら、自分が一番勉強ができるから、一番「えらい」と思っているから。
つまり、「リベラル」というのは、こういった連中を「自由」に、生きさせる、好きなだけ傲慢に生きて「いい」と主張する理論であることが分かるであろう。
それに対して、保守派は、そういった「謙遜」の態度を見せないような「無礼」な態度を問題視する。

「私が日本から学んだこと」と題した同記事では、「成田・ボストン間のJALの直行便の開通は、、世界各国が世界第三の経済大国と再び深く結びつこうとしている象徴」としたうえで、次のように述べている。

私は日本経済を立て直そうとしている経営幹部、起業家、ビジネスリーダーと出会い、「欧米諸国が日本から学ぶことは何もない、と考えるのは大きな間違いだ」と確信した。(中略)
ソニーなどの日本企業は、かつては革新的だったが、いまや他国の競合企業の後塵を拝している」と世間では認識されているかもしれない。しかし、日本からはいまも、世界を席巻しそうな企業が密かに排出しつつあるのだ。(中略)
経済は停滞していても、他国がうらやむほど国民の質が高いことに、私は感銘を受けた。多くの国々では経済的な格差が危機的に拡大しているにもかかわらず、日本国民の貧富の差は驚くほど小さい。日本社会は秩序と調和が保たれている。二〇一一年の東日本大震災からの復興をみれば、この国がたび重なる戦争や天災から立ち直ってきた国だということをあらためて実感する。(『ボストン・グローブ』二〇一三年二月二十六日付)

日本企業の特徴は、なんというか、その企業の「経営者」といったような、飛び抜けて「偉い」人がいない、というところにある。つまり、社長を含めて、その企業の「中核」を担う戦力は、同じ時期に入社して、一緒に育ってきた多くの「部長」たちによる、

  • 連合体

のようなところにある、と言える。そういう意味で、日本企業には、いわゆる「偉い」人がいない。それは、実際に、目ん玉が飛び出るような給料をもらっている人がいない、ということでもある、と言ってもいいのだろうが。
なんというか、みんな「偉く」ないが、逆に言うと、「みんな」が「偉い」とさえ言いたくなるような、自主性が各自に与えられている。
こういった構造は、どこか上記の「帝国日本陸軍」を彷彿とさせる構造だと言ってもいいのかもしれない。例えば、ある兵士が、カミカゼ特攻を行うことになったとする。そうすると、その兵士は、「神」となる。つまり、自己犠牲で、彼が日本を救ってくれる、ということになる。すると、である。ある逆転が起きるわけである。
上司は、その兵士に「敬語」を使うようになる。また、その兵士には、多少なりともの、リスペクトが与えられ、実際に、さまざまな「行動の自由」が許されることになる。
これが、日本企業だと言ってもいい。
日本企業の社員は、実際のところは、あまり細かいことを上司から言われない。というか、上司が言っても「聞かない」わけである。自分がやりたいようにやる。それを「自主性」と呼ぶのか「命令違反」と言うのかは微妙だが、そういう意味では、そういう細かいことをうんぬんしても、「自分で主体的にやろうとしている人」に対して、説教はきかないわけである。
先程の大西巨人の『神聖喜劇』を思い出してもらってもいい。大前田は、東堂太郎よりずっと学歴は下だ。しかし、大前田は東堂太郎の上司であるのだから、さまざまに命令する。まあ、早い話が、これが日本企業なのだと言ってもいい。よく考えてみてほしい。学歴がない上司が命令して、学歴のある部下が

  • 命令に従う

というのは、ある意味において、理想的な社会ではないだろうか? というか、こういったことが実現しているない社会は、やっぱりギスギスする。高学歴の人ばかりが、意味もなく、高額の給料がもらえたり、やたらと役職が高くなるような社会は、上記の引用にあるように、「うまくいかない」わけである...。