ストア派の「可能性の中心」

例えば、生活保護という日本の制度があるが、これを見ると、そもそも日本における「福祉」というのが、どういった基準になっているのか、というのが分かる。

生活保護世帯の場合、厚生労働省は今のところ、保護を受けながら昼間の大学・専門学校・各種学校に通うことを認めておらず、それらに進学するときは、学生だけを保護から外す「世帯分離」という形を取るしかありません。そういう考え方が現代の社会状況にふさわしいのか、貧困の連鎖を食い止める観点から見てどうなのか。社会的な議論が必要だと思います。
貧困と生活保護(26) 貧しい家庭の子も、大学進学をあきらめないで : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

驚くべきことに、今の日本において、大学進学は「国民の基本的権利」ではない、と言っているわけである。つまり、大学に行くということは「贅沢品」を買うのと同じ行為とみなされている。だとすると、である。この日本において、大学に進学したがゆえに、

  • 偉そう

にしている連中は全員、「悪徳」な存在だ、ということになるのではないか。
これは、明確な差別ではないか。お金がある奴だけしか、大学に行けないと言っているに等しいわけで、だったら、大学に行くことは「悪」だと言っていることと等しい、ということにならないのだろうか?
もしも、これ以降、なんらかの社会の変革が起きて、ほとんど全ての人が大学に行かなくなる、または、今、私たちが大学に行って行っていることと「同等」のことを、ネットを通しで「享受」するようになるなどして、あまり今の大学と同等の制度が不要になる、といったことが起きるなどして、確かに、大学の役割がなくなっていくことがあるとしても、今の日本社会において、大学に行ったがゆえに「偉そう」にしている連中が、そういった「差別」的待遇によって、特権的利益を得ているとするなら、それこそ

  • 現代の貴族制

ということになるわけであろう。
たとえば、現代の「グローバリズム」「新自由主義」においては、企業はより税金の安い国に移動していくので、国家は企業やお金持ちに税金をかけられない。なぜなら、彼らに税金を多くかけたら、彼らが国から逃げて、より税金の安い国に行ってしまって、国家が衰退するから、というわけである。そこで、国家はどうするか? 起業やお金持ちに税金をかけず、貧乏人に税金をかける。生活保護を受けにくくする。まあ、日本国憲法で言う「健康で文化的な生活」の中に、大学進学を含めない、とかするというわけである。
しかしね。それって、単純に「差別」じゃないんですかね。お金のある人しか行けないように、大学をしておいて、その大学に入った連中が、さまざまにこの国で「偉そう」にしている時点で、それって差別じゃないんですかね。違うんですかね。
日本国家は、そもそもの最初から、さまざまな「差別」を内包している、と言えないですかね?
つまり、日本国家は「悪国家」だということになるのではないか?
大学がこの日本においての、一つの「知」の基盤になるものとされるなら、まず国民の「全員」に開かれた場所になっていなければ、おかしいですよね。アメリカにおける、大統領選挙において、バーニー・サンダースの大学無償化の訴えは、結局、ヒラリー・クリントンはどうしたんでしたっけね? まあ、早い話が、とりあえず、国立大学くらいは、無料にしてしまえばいい。無料にするだけでなく、ベーシック・インカムのように、給料をあげたっていい。そのためのお金がないというのが、「グローバリズム派」「新自由主義派」の主張であったが、だったら、そういうことを言っているお金持ちたちの税金を上げるしかないよねw それを嫌がって、日本を出ていくお金持ちは、単純にこいつらに、日本で仕事をさせなければいい。日本の役に立ちたいと思っている人であれば、こういった「不正義」が行われているままに、自分の税金だけ安くなんて耐えられないと思うはずであろうw
ことほど左様に、どうも現代の日本という国はおかしくなっているようである。それというのも、格差の拡大が、人々の倫理観をおかしくして、功利主義的なエリート主義や、パターナリズムが自らの「認知的不協和」を認めようとしない、そういった

  • お金持ちたちの「無邪気」な差別

が常態化してきている、ということなのかもしれない。
つまり、なにが「基本」だったのか、それが忘れられている。古典的な基本の考え、つまり「徳倫理」のベースが、さまざまな現代的なアジェンダに覆われて、見失われてきている。私たちはもう一度、その「基本」に返る必要があるのではないか。

人間に理性を附与することによって、《自然》は人間を----部分の観点から見て----自律的な行為者となしている(二五五頁を参照)。人間が発達させる品性は、確かに原因と結果の法則の支配下にあるが、しかしその人自身の品性であって、《自然》の品性ではない。人間は、自分が置かれた環境に対しては責任を負わない。しかし、環境との関係で人が行為する仕方は、その人自身に帰属するもおである。ストア派は、望ましい結果を達成することよりはむしろ、それを目指すことの重要性を強調した。道徳的な判断と人間の幸福は、行為者の内的な姿勢、彼の精神常態と関係している。外敵な結果と意図を分けるこの区別は、荷車に結わけられた犬の譬えの例によって説明される。荷車は、人間を取り囲む情況を表している。人は、外敵な情況から独立に行為することはできない。しかし彼らの議論によれば、自ら進んでいっしょに走ってゆくか、あるいは、引きずられてゆくか決定するのは、彼自身であって、彼の環境ではない。

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

ストア派の知者は、あらゆる情動から自由である。怒り、恐怖、大得意や、これに類した極端な情動はすべて、彼の品性の内には認められない。彼は、快楽を善きものとみなすことも、苦痛を悪しきものとみなすこともない。人が経験する快楽や苦痛の多くは、自己の内部に秘めておくことができるが、しかし怒ったり、恐怖を感じたり、大得意であったりしている人が、自分自身の精神状態をまったく外部の観察者にもらさないというのは考えにくい。ストア派の知者は、苦痛や快楽の諸感覚に鈍感なわけではなく、むしろそれらは、「彼の魂を過度に動かし」はしないのである。
ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

まあ、ようするに、ストア派の「可能性の中心」というなら、こういうことだよね。前者は、人間の「善」を、その「行為」というより、その行為の「意図」に見ようとしているところに、すでに、功利主義との差異がでているし、後者は、まあ、一般的に「肝っ玉」とか呼ばれていたようなことですよね。
こういった「徳」といった人間像が、ある時期からなくなったわけですが、しかしそうだろうか? つまり、学校的な評価システムには確かにないし、ない方がいいのかもしれないけれど、でもそれって、上記で言ったような

がないなら、という「前提」があってですよねw そして、そもそも日常生活においては、私たちは「普通」にこういった「徳倫理」的な毎日を生きているのではないか? 自分が「お金持ち」ということをひけらかしている人を私たちは人間的に立派だとは思わないでしょう。まあ、そう考えれば、こういったストア派的な視点は、最も

  • 普通

の私たちの一般的な態度を言っているだけなのかもしれません...。