アニメ「ラブライブ」の作詞ワールド

アニメ「アンジュ・ヴィエルジュ」は、最初は凡庸な印象だったが、途中からおもしろくなってきた(マユカとアゲハの劇中話が始また4話くらいからだろうかw)
第7話「本当のともだち」で、今は敵勢力の囚われの身となっている、アルファドライバーの天音(あまね)との思い出を回想するエルエルは、「どこからが友達になるのか」というやりとりの中で、「考えていることがテレパシーでピピッて分かるくらい、心と心が通じたら」など、さまざまな例を列挙するが、天音はそれらすべてを「ハードル高い、そんなんじゃ友達できない」とダメ出しをする。そこで、じゃあなに? と問いかけるエルエルに天音は、ハイタッチをして「ともだち!」と叫ぶ。
こんな感じで、この作品において、天音は「アホの子」扱いをされているがw、彼女と関わった一人一人は、彼女がいなくなった今において、実は、天音はそうやって「アホの子」を演じながら、みんなのことをとても考えてくれていたことに気付かされていく。
そういう意味では、天音は徳倫理学的な意味において、倫理的な存在として解釈される。彼女が一見、「アホの子」であることは、彼女が「みんな」を思って選ぶことになる自らの立ち位置であることが分かるであろう。彼女が「アホの子」であることによって、周りは「自由」になれる。だとするなら、天音は甘んじてそれを受け入れる。天音が「アホの子」として、自由に本音で話すことが、周りの「みんな」の日常のプレッシャーで押しつぶされそうになっている心を和らげる。天音は自らを「陰の存在」であることを、拒否しない。その「裏方」的な姿勢こそ、彼女が有徳な存在であることを示している。
しかし、もう一つこのアニメには気になるところがある。それは、OPの歌詞なのだが。

見失うことさえ怖れない生き方
...してみようか Let's try!
道がいくつもあるけど
心に聞いたらわかるんだよ
鈴木このみLove is MY RAIL」)

自分らしくあろうと
真っ直ぐに見た 夢の色は変わらなかった
鈴木このみLove is MY RAIL」)

まあ、畑亜貴の作詞なのだが。彼女といえば、アニメの主題歌を多くてがけているが、なによりも、ラブライブの全作詞をてがけていることで最近では「おなじみ」の人が多いのだろう。
アニメ「ラブライブ」は、今、後継作の「ラブライブ サンシャイン」というのをやっているが、初代は一期と二期があったわけだが、特に、作品としては一期の第1話から第3話でほとんど全ての要素が出尽していて、よくできている。
一見すると、アイドルなどという女の「遊び」というか、サブカルの馬鹿馬鹿しい話に見えるが、どこか男っぽい。というか、これ、まんま「三国志」なんだよね。
つまり、アイドルを始めるのは、自分が通う学校を廃校から救おうとする「大義」なんですよね。だから、その「行動」が、アイドルで、ちゃらい服を着て、きゃぴきゃぴ歌って踊っていたとしても、その「志」において、表象としては、

のと同等の「メッセージ」を含意してしまっていて、見ていると、だんだんと、それぞれの行動の「意味」を考えさせられるようになっていて、まあ、こりゃあ、NHKも地上波で放送したくなるよなあ、という感じなんですよね。
しかも、それに合わせて、畑亜貴の作詞がなんとも言えない、ストア派的な意味深な内容で、アニオタがはまるのはよくわかるんだよね。

真っ直ぐな想いがみんなを結ぶ
(ミューズ「僕らは今のなかで」)

となりに君がいて(嬉しい景色)
となりは君なんだ
(ミューズ「きっと青春が聞こえる」)

悲しみに閉ざされて
泣くだけの君じゃない
熱い胸
きっと未来を切り開く筈さ
(ミューズ「START:DASH!!」)

きっと(きっと)君の(夢の)
チカラ(いまを)動かすチカラ
信じてるよ...だからSTART!!
(ミューズ「START:DASH!!」)

アイドルは、ステージの上で、かわいい衣装を着て、歌って躍る。しかし、それはなぜなのだろう? なぜ、「そう」なのか? なぜ、その衣装なのか? なぜそこで、そのように躍るのか? なぜそこで、そのように歌うのか? なぜそこで、そのように笑うのか? なぜなら、それは一つ一つがなにかを表象する「メッセージ」だから。言うべきことがあるから、それを伝えようとするし、だとするなら、その一つ一つには三国志の三人がそうであるように、意味がある。言うべきことがあるから言うし、見せるべきことがあるからその服を着るし、示すべきことがあるから、そう躍る。
そうやって考えてみると、第一期のOPの9人でのパフォーマンスは、なにか見ている人に伝わってくるものがある「なにか」に見えてくるんだよね...。