中島義道『差別感情の哲学』

アニメ「君の名は」を、映画館で見たわけだが、会社帰りに映画館がチケットを買おうとしたら、やたら長蛇の列でw しかも、そのほとんどが、中高生の学割っぽい仲間づれか、恋人同士か。そういった「やれやれ」感で見たせいか、どうも今の私の感覚は、青春時代とはかけ離れてしまっているようで、なんとも言えない、おもしろくなさが気になる。
まあ、ほとんど高校生の瀧と三葉がどういった今までを生きてきたのかの描写はない。急に、この舞台に現われた二人は、どういったことを今まで考えて生きてきたのか、といったことについて、ほとんど、わからない。どういった感じの、裕福さの家庭だったのか、とか。
とにかく、いろいろとごたごたあったけど、時の流れの中で、いろんなことを忘れて、瀧が大学卒業の就職活動をしているとき(まだ、就職先が決まっていないところがポイントだ)、二人は偶然、再会するところで作品は終わる(すんませんw ネタバレがひどくて)。
まあ、出会うことはいいわけである。ちょっと、ドーテーのモーソーっぽく(三葉も瀧を探してて今まで恋人いませんでしたって勢いの感じが気持ち悪いが)思えなくもないことも、まあいいとしよう。しかし、である。「So what?」と思ってしまうわけである。それで、その後

  • どーなんの

って。一体、何が終わったのだろう、って。
ようするに、何が言いたいか? この作品はうまく、「政治」性を隠しているわけである。隕石の比喩は、私たちには3・11の津波を思い出させる。もっと言えば、福島第一を思い出させる。例えば、三葉が3・11の前に、福島第一を止めようとしていたら、と想像してみよう。それって、一体、何を意味しているのか、と。もろ、今の私たちではないか?
ちょうど、新潟県の泉田知事が次の県知事選に立候補しない、という報道があったが、こういった政治性を、この作品はうまく避けている。
瀧が就職活動中のまだ就職先が決まらない、つまり、具体的な自分がこれから殉じていく企業の「政治」性がはっきりする前に、三葉と出会う。しかし、じゃあ出会ってから、それからどうなるの? 就職先は? 3・11で福島第一が爆発したからって、今でも日本には、たくさんの原発がある。じゃあ、それらって「どーする」の? 出会って「終わり」って、なんなんだよ、って素朴の思う、というわけであるw
なぜ私はこの作品に違和感を感じたのか? それをここでは「心理学主義」と呼んでおこう。
これに対して、最近の私が注目している「ストア派」的な態度においては、どのようにそういったものと違っているのか、を考えてみたい。

もし仮に人間がどんな理性的な能力ももっていなかったとすれば、クリュシッポスが最初に素描したような自己保存のみが、人間にとっ追及すべき自然的なことであり、そしてそれえゆえ正しいこと、あるいは適切なことであっただろう。食べ物を集めること、敵から身を守ること、生殖すること、これらのことは、非理性的な動物な自己に属することとして知覚する活動であって、それらに従事することによって、動物は自然的に、すなわち《自然》によって計画された仕方で活動してゆく。非理性的な動物は、そうした營みによって、自分自身を、すなわち、自分自身を構成するものとしてそれが認めるものを保存する。しかしそのような活動は、人間にとっても自然的ではないのだろうか。この問題に対するストア派の答えは複雑であり、彼らの答えへの最良の接近法は、『善と悪の究極について』からの長い引用を示すことであろう。

さてわれわれは、《自然》のこれらの出発点から逸れてしまったので話を先に進めることにして、結果してくることはそれらの出発点に対して整合的でなければならない。結果してくることの一つは次の第一の分類である----ストア派は、価値あるものとは、それ自体《自然》に適っているものであるか、あるいは、そうした事態をもたらすようなものであると言っている。したがってそれは、価値ある何らかの重みをもっているから選び取るに値し、他方、それと反対のものは、価値がないということになる。こうして基本的な原則として、《自然》に適ったものはそれ自体のゆえに獲得されるべきものであり、それと反対のものは斥けられるべきものであるということが確立されると、第一に相応しい役割は、自らをその自然的な構成の内で保存することであり、第二に相応しい役割は、《自然》に適ったものを捉え、反対のものを遠ざけることである。いったんこの選び取りと拒絶が見出されると、その次に結果してくるのは、相応しい役割の遂行を伴う選び取りである。そしてそれに続いて、そのような選び取りが連続的になされるようになり、最後に来るのは、完全に整合的で《自然》と一致した選び取りである。そしてここにたってはじめて、真の意味で善いと呼ばれうるものが人の内に宿りはじめ、理解されはじめる。というのも、人間の最初の親近性は、《自然》に適ったものに向かうけれども、しかし人が理解----あるいはむしろ概念----を獲得し、諸行為の秩序と調和を目の当たりにするようになるやいなや、ただちに荒れは、こちらの方に、最初に愛していたすべてのものよりもはるかに高い価値を認めるようになって、そしてこの内にこそ、それ自体のゆえに賞賛され追及されるべいかの人間の最高善は存在すると、理性的に結論づけるからである。この調和の内に、あらゆる物事の基準となるかの善は存在しており、それゆえ、有徳な行為と徳そのもの----これのみが善きものの内に教えられる----は、後から生まれてくるものであるけれども、それ自身の性質と価値ゆえに追及されるべきただ一つのものである。他方、自然の最初の対象の内には、それ自身のゆえに追及されるべきものは何一つないのである(『善と悪の究極について』第三巻二〇--二一)。

この一節には、ストア派倫理学お基本的な諸説が要約的に収められている。「真の意味で善いと呼ばれうるもの」に関する知識と、有徳な行為は、理性的存在の発達の最高段階として取り上げられている幼児期以来、ある行動様式が人間(および他の生き物)に相応しいものとして、《自然》によって是認されるけれども、しかし、人間が純粋に動物的で本能的な反応を示す生き物から出発して、理性を十分に具えた成人へと発達していくにつれて、その様式は変化してゆく。キケロが跡をあどる五つの段階のそれぞれにおいて、人間には、その発達の特定の時期の人間にとって適切な役割が割り当てられる。このようにして規定された人間の自然は、一つの進化してゆく現象であり、それはストア派倫理学の特徴をなす概念である。より初期の段階において適切な事柄が、のちになってその性格を失うわけではない。しかし、それが人間の役割に対してもつ関係は、人間が変化してゆくのに応じて変化してゆく。それぞれの新たな段階は、直前の役割を改変する何ごとかをつけ加える。この進行過程の目的は、成熟した人間の自然に適った生----すなわち、共通の《自然》の理性的あり方、諸目的、および諸過程と完全に調和した理性的諸原理によって支配された生----である。
ここに素描された諸段階は、人間の自然の発達を規範的に説明するものである。人間の大多数は、最終段階に完全に到達できるはずはなく、また多くの人々は、第四段階にさえ達することもない。もし仮にこの素描が、幼児期から成熟期にいたる発達過程の純然たる記述であるとすれば、愚かな人間、あるいは悪しき人間は存在しない、ということになるだろう。人間の最初の本能的衝動が決定されているのとは異なり、人間の自然の完成は、人間自身の努力と無関係に決定されているわけではないから(そのことは、すでにわれわれが見たところである)、愚かな人間、悪しき人間は確かに存在する。しかし、人間の究極の目的ないし役割は、人間の自然を完成することなのである。

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

ヘレニズム哲学―ストア派、エピクロス派、懐疑派

フロイト心理学は、私たちの今の「病気」の「原因」を。自らの幼い頃の「自分」に見出すとする。しかし、こういった考えは、人間を「幼年期」の

  • 自然=現実=本能=動物

といった、たんに「反射」的に、自己保存だけを目的としていた頃の自分に「還元」して解釈する態度を過大に重要視してしまう。そのため、私たちがより「大人」となるにつれて、自らを「抑制的」に生きるようになる

といった視点への関心が、フロイト心理学には弱いわけである。フロイト心理学は、「病気」の「真の姿」に迫ろうとすることを目的としているため、どうしても「過去」の、幼かった頃の自らの姿に

  • 真の本質

を見出そうとする傾向がある。よって、人間の「本質」を「自然=動物」に見出そうとしてしまう。しかし、そうすることによって、ストア派が重要視したような、「大人=徳倫理性」の本質を逃してしまうわけである(おそらく、アドラー心理学はこのアポリアの回避に成功している)。
私は掲題の本に対しても、同様の「心理学主義」の臭いをかぐ。掲題の本は、「差別」の本ではない。わざわざ「差別感情」というようにタイトルがなっているように、掲題の本は

  • 差別を「感情」の問題に還元している

わけである。これは、私などにしてみれば、驚くべき態度である。
なぜか?
それは、そもそも差別とは「社会制度」の問題だと、私は考えるからだ。例えば、掲題の本では、「差別」の例として、検討されているものとして、「在日朝鮮人の就職差別」と「子どもの<いじめ>」がとりあげられている。しかし、なぜ日本社会では、在日朝鮮人の人たちの就職時における「差別」をなくすための、アファーマティブ・アクションが、制度として含まれていないのだろう? また、子どもの「いじめ」問題は、上記のストア派的な考えからするなら、

  • 幼少期の「自己保存」

のための、さまざまな防衛的な子どもの態度が、多くの「残酷さ」を結果するわけだが、だとするなら、まずもって、今の日本の40人学級のようなものを止めるべきであろう。一人の大人の先生が、面倒を見る子どもの数を少なくする、ということこそが、まず最初に必要な手立てであろう。
掲題の本は、何度も何度も「いじめはなくならない」ということを強調する。しかし、それは「子ども」がストア派的な意味において「自然」を生きているからであって、それが子どもの「本質」だから、ということを意味しているに過ぎず、だからといって

  • 成人となった<あなた>は、今だに子どもの頃そうであったように、<いじめ>をすることを「抑止」できないのか?

と、ストア派は問うているわけであろう。それは、無意識にそうしているかどうか、というより「<いじめ>をやらないように努力しているのか」という、努力や、それを実現するための「知性」が問われているわけで、ここでフロイト主義者のように、子どもの頃の「慣習」をひっぱりだしてきて、「お前にそんな立派なことは無理だ」と言ってもしょうがないわけであろう。
例えば、掲題の本の最後の章には、「ヒトラーは誠実であったか」という問いがある。それは、最近の話題で言えば、相模原事件の植松容疑者は「誠実」だったのか、という問いと同型なのであって、ようするに「心理学主義」は、これを肯定しないわけにはいかなくなるわけである。つまり、「心理学」とは、フロイトの「無意識」が「逆説」としてしか定義できないのと同じように、一種の「逆ばり」だから、植松容疑者でさえ「誠実」だった、と言わざるをえなくなる。それは、結局は「心理学主義」は、幼い頃の「僕」の

  • ピュア

な感情に、ルソー的な「ふるさと」であり「故郷」を見出してしまうので、あらゆる子どもの頃の自らの感情を「純粋=自然=現実」であるがゆえに、肯定せずにいられなくなる。つまり、彼らには、それ以外のストア派が考えていたような

  • 徳倫理

のようなものを考える余地が残されていない。
同じ問題は、アニメ「君の名は」についても言えるであろう。三葉と瀧は、確かに、大人になって再び出会うことになるわけであるが、二人はその間に「成長」したのか? なにか変わったのか? おそらく、この作品においてはそれは主題とならない。なぜなら、過去になれそめがあった二人が、「再び出会う」ということ自体が

  • 価値

だからで、時が経つ間のストア派的な意味での「徳倫理学」的な「成長」が主題とはなっていないから、というわけである...。