宇野重規『民主主義のつくり方』

東浩紀さんの『一般意志2.0』の文庫版の末尾に、掲題の著者との対談が掲載されているが、その最初で、掲題の本について東さん自身が言及されている。
というのは、掲題の本の最初は、東さんのその本についての「批評」から始まっているからでもある。というか、そもそも、東さんのその本には、宇野重規さんの『<私>時代のデモクラシー』について批判している個所があるわけである。
つまり、形の上では、以下のようになっている。

さて。この二人の「論争」の決着は着いたのだろうか? しかし、私には、そもそも、そういったレベルで、なにかを語りたくない。というのは、私は以前から、このフログで検討してきたように、東浩紀さんの『一般意志2.0』は非常に問題含みだと思っているからである。

筆者は、民主主義の理念は、情報社会の現実のうえで新しいものへとアップデートできるし、またそうするべきだと主張する。

さて。普通、このように本の最初に書かれてあれば、この本は「民主主義」について書かれてある本だと思うであろう。しかし、もしそうだとすると、ルソーは「民主主義」の哲学者だ、ということになる。それは、正しいのだろうか? 不思議に聞こえるかもしれない。つまり、ルソーは、「民主主義」賛成論者なのだろうか? よく考えてほしい。ルソーが生きた時代を。

ポイントは主権論にあるのかもしれない。たしかに、君主主権から人民主権へというルソーの議論は、目覚ましい転回にみえる。とはいえ、担い手の変更にもかかわらず、社会の内外に対し、一つの優越的な意志が存在するという主権論のロジックには、いささかの変化もない。ある意味で、ルソーは主権論をそのまま継承し、その担い手を、君主から人民へと入れ替えただけともいえる。

ルソーの言う「一般意志」とはなんだろう? よく考えてみてほしい。これは、「民主主義」なのだろうか? 一般意志と民主主義になんの関係があるのだろうか?

東:この本の中でも書きましたが、ルソーは『エミール』のある箇所で一般意志を「モノ chose」になぞらえています。彼はなるべく、子どもは自然にまかせておけばよいと考えた。たとえば、走ってはだめだと言う必要はなく、走れば転ぶ、転べば痛いから自動的に走ってはいけないと学ぶ、というわけです。そうした自然の障害と同じような意味で一般意志という言葉を使っている。つまり、ルソーにとって、一般意志というのは動かしがたい現実なんですね。
宇野重規東浩紀「対談 日本的リベラリズムの夢」)
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

この例からも分かるように、ルソーの「一般意志」とは、非常に一般的な意味で解釈するなら

  • 伝統

のことなのだ。昔から、だれもが「常識」としていることだから、今さらそれの正当性の根拠を考えることすらばからしい、そういった「常識」について言っている。だから、「議論」が必要ない。そういう意味では、ルソーは、ある「自明性」が通用するような狭いコミュニティを最初から前提にしている。
上記の引用の個所の「走れば転ぶ、転べば痛いから自動的に走ってはいけないと学ぶ」というロジックも、いや、走ったら自動車にひかれて死ぬでしょ、と思うわけだけど、ようするに、「走った」ら、(戦争とか環境汚染とかで)人類が滅亡する、だから、「民主主義」なんじゃないのか、という話をずっとやっているつもりでいたんだけど、なんかずれているんだよね。

とはいえそれでも、一般意志の抽出のためにはコミュニケーションは要らない、市民はみなそれぞれの個人の望みを公的な場で表明だけすればいいと断言されると、読者の多くがたじろぐにちがいない。繰り返しになるが、それはあまりにも、合意形成についての、あるいは政治そのものについての常識に反しているからである。
しかし、だからこそ、そこにルソーの思想の独創性が刻まれているとも言える。
ルソーは代議制を否定しただけではない。政党政治を否定しただけでない。彼は、すべての市民が一堂に会し、全員がただ自分の意志を表明するだけで、いかなる意見調整もなしにただちに一般意志が立ち上がる、そのような特殊な情況を夢見た。というより、ルソーは、そのような情況が実現しなければひとは決して「自由」にはならないと考えていた。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

この引用の最後の個所は、東さんにはルソーの言う「自由」が価値のあるものに思えてこのように、どや顔で言っているわけであるが、掲題の本において、ルソーの「自由」は以下にように、ずいぶんと覚めた解釈のようである。

それどころか、共通の意志である一般意志が各人の特殊意志と食い違った場合には、一般意志の方が優越するとルソーはいう。一般意志の方が正しいのだから、特殊意志はそれに従って当たり前というわけである。むしろ一般意志に従うことで、人は「自由であるように強制される」とさえいう。

上記の引用が典型的であるが、『一般意志2.0』がなぜ、

  • 民主主義否定論

だと私が考えるのかというなら、市民が発する「つぶやき」から、「一般意志計算googleマシーン」による、一般意志生成政治システムにしても、ニコニコ動画のコメント政治システムにしても、どちらにしろ、

  • 大衆による政治の「選択」の権利の剥奪

が結果として起きているから、と言うしかない。googleマシーンは、どんな計算をしたのかしらないけど、どうも勝手に、政策を決めちゃうらしいしw、ニコニコ動画コメントなんて、政治家の「ちら見」で終了w 国民もなめられたものである。

繰り返すが、自分たちの力で、自分たちの社会を変えていくことが民主主義の本質のはずである。この理念を完全に放棄するとき、私たちは、端的に無力になる。どこかで誰かが、あるいは何らかのシステムが、自分たちの欲求を調整してくれることを期待している私たちは、すでに自らの運命を誰かに委ねてしまっている。

うーん。
どうして、こんなことになるのだろう? 私にはどうしても、なぜ東さんがルソーに「民主主義」を見ようとするのか、ここがよく分からない(この違和感は、私たちがヘーゲルに「民主主義」の起源を見ようとするような感じなのかもしれない。確かに、ヘーゲルは、中世封建社会から、フランス革命を経て、近代社会、自由社会へと至る「歴史法則」を考察したわけだが、だからといって、ヘーゲルは別に、「民主主義」社会を生きたわけでも、そういった社会こそ理想だと言ったわけでもない)。
ただし、一つ付け加えておくと、上記の時間軸における、最後の対談では、東さんは一気に自らの立場を後退させて、以下のように、一般意志をもはや積極的には語らなくなっている。

東:繰り返しますが、僕は、視聴者の本当の一般意志が正しく透明にモニタ上に可視化されるとは思っていません。そもそも本当は一般意志なんて存在しない。大事なのは、物理的なモノ、一つの障害物として、モニタにあらわれるということです。
宇野重規東浩紀「対談 日本的リベラリズムの夢」)
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル (講談社文庫)

まあ、山本七平が言っていた「空気」が今は、ツイッターや、はてなブックマークなどで統計的な「可視化」をされている。そういった統計情報が次々と現れてきた社会だ、という話にまで後退してきたという感じで、いや、

  • 民主主義のヴァージョンアップ

はどうしたんだっけ、という感じなのだがw
まあ、いずれにしろ、そのように考えたとき、「民主主義」の

  • 起源

を私たちはどこに見出すべきなのだろうか? このように言うと、いや、古代ギリシアだって民主主義制度を採用していたのであって、なにか、「民主主義」を特別な制度のように解釈するのは無理なんじゃないか、と思うかもしれない。しかし、私が言いたいのはそういうことではなくて、

  • 今私たちが「これが民主主義だ」と考えているもの

が生まれたのは「いつ」なのか、と問うているわけである。

重要なのは、まず何よりも、この変容により社会のヒエラルキー的な秩序がもはや自明ではなくなるということである。平等化は、主従の関係、人と人との優劣関係のあり方を根本的に変えてしまうのである。平等化の結果、それまで自然に見えていた権威や支配--服従関係は、自然なものとは思えなくなる。それは、現実における格差の消滅という以上に、想像力の変質であると言える。かつて不平等が自然であった時代には、人間の平等を正当化するためには特別の理由づけが必要であった。これに対し、平等が自然な時代においては、むしろ不平等を正当化するのに特別な理由が要求される。自分とあの人とは、なぜ平等ではないのか。それを正当化するだけの十分な理由があるのだろうか。人が自然にそのように自問するようになるとき、そのような人間から成る社会は「デモクラシー」の社会なのである。

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

掲題の著者は、『トクヴィル 平等と不平等の理論家』において、トクヴィルこそ「民主主義」を

  • 始めて発見した人

という解釈をしている。その意味は、トクヴィルが旅行して、観察したアメリカ社会は、トクヴィルが自ら産まれて生きたフランスの「貴族制社会(アリストクラシー)」とは、まったく違った社会だった、というところにある。それこそ

  • 諸条件の平等

の社会であった。つまり、である。これこそ、「民主主義」の本質なのだ。
民主主義にとって大事なのは、ルソーのような「主体」が誰かとか、「意志」がなんだとかではなく、

  • 諸条件の平等

が「拡大」していく、というところにある。東浩紀さんの本が決定的に間違っているのは、googleマシーンにしろ、ニコニコ動画コメントにしろ、

  • 「国民の政策決定の選択」条件の平等

が担保されていない。国民が「なにかつぶやく」ことをしたら、勝手に、政治家やコンピュータが「斟酌」してくれるだろう、きっとやってくれるはずだ、そうにちがいない、という。つまり、これは現代政治の、大衆による政治の場の選択の「権利」が、

  • 剥奪

されるという、「民主主義」の後退を結果として生じさせてしまっているわけであり、そして、なぜかそのことを、東さんは「輝かしい民主主義の未来」として、夢として語ったわけである。
つまり、このことを端的に言うなら、

  • 一般意志2.0=ネット・テクノロジーの発展があれば、民主政治を止めて、昔の貴族政治に「戻れる」んじゃない?

と言っているようにしか思えないわけである。
しかし、実際に東浩紀さんは、さまざまな場所で、ポピュリズム批判という文脈で、大衆が選挙で政治家を選ぶという今の民主主義を批判してきたんじゃなかっただろうか。彼は常に、

  • 選良(=エリート)

による「選択」を主張していたわけで、明確に、大衆が「直接」、政治のアジェンダの「選択」に関わることに反対していたのではないか。
例えば、『一般意志2.0』における、宇野重規さんの『<私>時代のデモクラシー』批判の個所の論点は、「私的利害」をどうせ(ルソー的)人間は超えられない、だとするなら、だれもが「私的利害」にしか興味がなくても成立する社会を目指さなければならない、というわけだが、これって

  • エリートが大衆を差別しても許される社会

とか、

  • エリートには「なにを言ってもいい自由」が保障される社会

とか、そういった「個人の内世界」が「満足」される社会であれば、功利主義的に、だれもがハッピーなんだから、どうせ「公共マインド」のような不可能な啓蒙主義は欺瞞だろ、と。いくら偽善を言ったって、どうせ心の底では、エリートは大衆をバカにしてるんだから、大衆を蹴落して、エリートが優遇されるのは当然。まさに、そういった「私的利害」を<肯定>した上で作られるシステム以外に、成立しえない、というわけである。
一見すると、こういった「個人の自由」を極限的な拡大を求める主張は、正論に聞こえるわけですが、しかし、少なくともこれは、トクヴィル的デモクラシーの「方向性」ではない。

「高価な嗜好 expensive tastes」問題は、同じ水準の厚生(快楽ないし欲求充足)に達するために、ある人は高額な財を必要とするが別の人は安価な財しか必要としない場合、厚生の平等という観点からは、後者から前者に対して何らかの資源(貨幣など)を移転することが規範的に正しい、という反直観的な結論を導いてしまうというものである。「適応的選好 adaptive preference」問題は、虐げられることに慣れてしまった奴隷やメイドが、客観的に見れば非常に劣悪な自分の境遇に満足してしまって、その結果、物質的に贅沢な暮らしをしている人間より厚生の観点では優るような場合、前者から後者への資源移転が規範的に正しいとする反直感的結論を導いてしまう、というものである。
(斎藤拓「訳者後書」)

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

平等主義の哲学: ロールズから健康の分配まで

功利主義の批判としてよく言われる論点であって、そもそも個々人の意志の実現や幸福の実現を、どんなに功利主義的に拡大しても、それは「奴隷の幸福」であるなら、それでいいのか、が問われているわけであろう。つまり、功利主義奴隷制をやめられない。そういう意味では、ルソーの一般意志はトクヴィル的デモクラシーに反するのだ。)
大事なポイントは、トクヴィルが考えた「デモクラシー」の可能性の中心とは、なんらかの

  • 平等

に関係している、というところにあるのであって、少なくとも、この方向において「今以上の拡大」を主張していない一切の夢は、「未来のデモクラシー」ではない、ということである。
なぜ、こんな感じになるのでしょうか?
それは、私には、今の日本社会が、戦前から変わらず、ある種の「不平等」を当然と考える世間の風潮があるから、と感じるわけです。
日本社会は「不平等」ではないでしょうか?
そう思わない?
なぜ、あなたはそう思わないのでしょう?

たしかに子どもの学力差や、学力をもとにした序列化についての議論はさかんでした。したがって学校における成績づけや受験競争についての批判が高まり、やがて「誰でもがんばればできる」という「努力の平等主義」が強調されるようになります。逆に今日では、このような趨勢への反動が生じ、むしろ「結果の平等が行き過ぎ、出る杭は売たれるで、個の主張が抑えられている」といった、日本的な「結果の平等」批判が噴出するようになっています。しかしながら、刈谷にいわせれば、そこに一貫して欠如していたのは、教育において階層に基づく不平等が厳然として存在するという事実への問題意識でした、いいかえれば、日本の平等論においては、奇妙なほどにグループ間の比較の視点が欠如していたというのです。

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)

例えば、日本の教育システムにおいて、特に、高校は普通科進学校から、そうでない専門科の高校まで、上から下まで、授業内容のレベルが違います。実質的に、ここにおいて、高校生は、

  • 学校単位

で著しい「不平等」がされる。進学校でない高校に入れば、普通は上の大学にはその時点で行けない。というのは、授業の内容が小規模に抑えられるから。
これでいいんでしょうかね?
しかし、東さんの以下の発言は、もはや、そういったレベルではないようです。

端的に言うとすべて違います。もっとも効果が高いのは、東大合格者数の多い高校に通うことです。つまり、東大に行く確立がもっとも高い環境に身を置くことです。
東大は、合格者の現役率が高く、さらにそのなかでも有名進学校出身者が多いことで知られています。要は、一部の有名高校から、浪人もせずにさくっと合格した人々が多い大学です。それでは、それら有名高校の生徒たちは特別に優秀だったのでしょうか。そうではない、とは言いません。けれども、それ以上に、まわりに東大に受かるひと、受かったひとがたくさんいるため、東大に入るノウハウが手に入りやすかったことが大きいと思います。

いや。だったら、東大はなんらかの「差別」を生産している場所ということになるんじゃないのか。東大には正当性がない、ということを言ってしまっているわけでしょう(東大こそ、反民主主義的だ)。
うーん。
東さんにとって、私の考えるような「平等主義」は、たんなる「偽善」ということのようです。どうでもいいですが。

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

民主主義のつくり方 (筑摩選書)