西宮硝子の内世界

おそらく、アニメ「聲の形」がここまで分かりにくいのは、聴覚障害者の西宮硝子(にしみやしょうこ)が

  • なにを考えているのか分からない

から、ということに尽きているんじゃないのか、と思っている。
つまり、彼女が何を考えているのかを、誰一人、理解していないのだ。

  • だれも

だ。ここに全てが尽きている。彼女はだれからも理解をされない。そのことが、この作品を不透明にしている。
なぜ、このアニメは、こんなにも分かりにくいのか?
それは、この作品が、誰も彼女を理解していないのに、「残酷」にも時が過ぎていくから。つまり、作品世界は、硝子以外のあらゆるキャラクターと「観客」を、まとめて、おきざりにしてストーリーは進む。
一般的に、多くのエンターテイメントは、なんらかの「超越点」を中心にして、ストーリーは進む。その主人公の「内世界」が、この世界を俯瞰的で、十全に説明していることによって

  • 安心

を与える。物語とは基本的にこの「安心」のことを言う。
ところが、このアニメにおいて、硝子がなにを考えているのかを少しでも「理解」して振る舞っている存在がまったく描かれない。だから、必然的に観客はストーリーが進めば進むほど「不安」になっていく。どうしても、なにかが「間違っている」という不安が、後から後から湧いてくるのだ。

----周囲が辛く当たるのは、自分が悪いから。だから自分は加害者だ......あまりに悲しすぎます。
大今:いじめられることは辛いことではありますが、その最大の要因は「自分が今と違う自分に変われないから」という結論に行き着いてしまったからです。だから硝子はずっと自分を責めています。
私自身、クラスメイトが嫌で学校に行かなかった時期があるのですが、先生や周囲の人たちのなかには、そういうときに「自分が変わればいいといった話をしたがる人がいます。硝子もやはり同じようなことを言われ続けていて、だから硝子のなかには常に「変わりたい」という意識がすり込まれてしまい、「新しい自分に変われないこと」が "呪い" になっています。その根底には「耳が聞こえるようになればいい」という想いもあるわけですが、それはどれだけ自分が積極的になっても越えられない。耳が聞こえないことも含めて、周囲が望むような自分に変われないから、みんなに迷惑をかけていると。そんな自虐的な想いが、彼女のなかにある加害者意識に繋がっています。
硝子の周りにも世話を焼いてくれる優しい人はもちろんいます。しかし、そういった人も、「わかった "つもり"」で硝子に対する解釈を自分のなかで結論づけてしまっていて、硝子が抱く加害者意識には、いちばんそばにいた家族でさえ誰も気づけずにいるんです。

うーん。
まあ、ここはまさに、作者の体験をもとにした「リアリズム」がある場所なんじゃないだろうか。
石田の視点から描かれるこの作品は、小学校時代の石田が「いじめ」を始める「ショッキング」な映像から始まる。つまり、こんなに美少女の、無垢な、しかも「障害」をもっている女の子が「暴力」をふるわれる場面から、作品が描かれるため、この作品を見た多くの大人は、この場面の「インパクト」にやられてしまう。
しかし、ストーリーを俯瞰的に把握していくと、硝子はこの学校に引っ越してくる前の学校でも、「ひどい」いじめを受けていた。いや。それがひどかったから、転校してきたのであって、彼女の視点から見れば、むしろこれこそが

  • いつもの光景

でしかない。石田は自分が始めた硝子への「いじめ」を、なにか「革命」のような、世界を変えたくらいの「でかいこと」をやった感覚でいるが、硝子にしてみればそれは、以前の学校でも普通にあった「日常」でしかなかった、ということなのだ。
どうだろう?
こんな視点で、あの映画を見た人がどれだけいるだろうか?
また、上記の引用にもあるように、硝子はある意味において、自らが「障害者」となったこの「聴覚障害」を

  • 差別

している、と言うこともできる。彼女は周りの大人たちのマインド・コントロールによって、すべての「うまくいかない」元凶が、自分が聴覚障害者であることだと思っている。つまり、彼女は一日でも早く、この聴覚障害者であるという情況を抜け出したいのだ。そう思って、あがいているわけである。彼女は、自分が聴覚障害者であることを、「そのままの自分」として受け入れられない。このままの自分を「そのまま」の存在として大事にしてやることができない。そういう意味では、非常に狭量な心を変えられないでいる、わけである。
なぜ硝子は自殺を選んだのか。それは、このように彼女が自分を「健常者」に変えようと努力してきた果ての、「挫折」の結果としての、言わば「論理的帰結」だったと言うほかなかったわけであろう。それは、彼女の「優しさ」とか、「純粋さ」とか、そういったものとは、なんの関係もない。むしろ、自分が「聴覚障害者」であることを、まさに、それが自分のことであるにも関わらず、受け入れられない、それくらいに、強烈な「聴覚障害者差別」にとらわれていた、と解釈することもできる。彼女は道徳的に、自分が「聴覚障害者」として、社会に迷惑をかけることが、

  • 健常者視点

から、許せなかった。しかし、どう思うだろう? 世の中には、多くの聴覚障害者がいるし、そもそも「ノーマル社会」とは、健常者の中に聴覚障害者がいる、その二つが当然のように混在する、そういった「多様」社会であるはずなわけであろう。そういう意味では、彼女の「差別」は、自分の中で完結することなく、世の中一般を「差別」していることになっていることに、気付いていない。
私はぜひとも、もう一度、こういった「視点」で(硝子の内世界を意識しながら)、この映画を見てもらえれば、また、違った印象をもたれるのではないか、と思っている。
おそらく、多くの人がもたれる不満は、上記のような、世の中を広く見られるようになるまでには、彼らはもっと年齢を重ねて、多くの経験をしなければならない、ということなのだろうが、それらが描かれることはない、というところにあるのだろう。
彼らはあまりにも若い。できごころから自殺未遂をしてしまって、たまたま、命を救われて、その後も生き残って、そして、多くの経験をしていくのである...。