私たちは植野直花を理解できるのか?

(映画「聲の形」について、今まで書いた内容で、一部訂正しておこうかと思うことがあって、石田は小学校のときは「いじめ」られていた。中学校は分からないけど、高校は少なくとも、小学校の頃の「いじめっ子」である彼を知っている人が、クラスの中でさえ、あまりいなくて、そうなんだけど、石田自身が「おびえて」いる。おびえているから、周りと交流をもてなくて、教室のすみっこにずっといる、という関係になっていると。まあ、微妙な差異かな。)
映画「聲の形」について、一つだけ、どうしても解せないのが、石田はなぜ「手話」がこんなにできるのか、というところであった。まあ、独学をするのはいいのだが、これって、硝子に会って、なにかを伝える目的だった、ということなのであろう。しかし、石田はもう死のうと思っていたのではないか。ここまでの、手話能力は硝子に最後に会って、なにかを伝えるのに必要なんだろうか? まあ、中学、高校と友達もいないで、比較的に暇だった、ということなのかな。まあ、それなりに、下手糞な手話であることが、そのやりとりから伝わってくるからいいのだが。
この問題を考えてみるにも、おそらく原作者は、それほど「聴覚障害者」といった特異な存在「でなければならない」という、こだわりはなかったんじゃないのかな、とも思えてくる。なんらかの、意志疎通に齟齬がきたすような場合についての、より普遍的な問題に感心があったのかな、とは。
ほとんどの人にとってどうも、この作品が難しいのは、おそらく、「手話」にあるのではないだろうか。というか、そもそも、硝子を理解しようとする登場人物がそれで「苦労」しているくらいであるから。そういった「フラグ」が、そこかしこで散財していて、みんなが「うまく理解できない」齟齬をきたしている。
そういう意味では、手話の「字幕」が必要なのではないか、とさえ思えてくる。
多くの観客は、この硝子の「手話」を「ノイズ」として、無視するであろう。しかし、大事なのは理解できなくてもいいけど、

  • 見る=覚える

ことなのだ。いや。それをやらないと、ほとんど理解できない。なぜなら、以前と同じ手の動きをする場面において、登場人物はその時の手話の理解度によって、理解できてたりできていなかったりして、その後の行動に差異があらわれるのだから。
ある聴覚障害者が、自分に向かって、ある手話を行ったとする。私はそれを理解できない。しかし、それが「手話」だと分かっていれば、同じ手の動きを見たとき、

  • あの時のと同じだ!

と思うことはできる。というか、これが「人間関係」なんじゃないのか。分かる分からないの問題じゃない。相手と真剣に向き合おうとしているなら、その手ぶりを記憶するわけであろう。それが「見ている」ということなんじゃないか。
(たとえば、石田は小学校の頃の、硝子の「手話」を覚えていて、あの時、なにを言おうとしていたのかを調べて、再開のとき、思わずその「友達」になりたい的な手話を、硝子の前でしてしまう。まあ、石田はまだ初心者だからな。)
ずいぶん時間がかかったが、やっと、この作品について、自分なりの解釈が固まってきたかな、と思っている。
そこでまず、「いじめ」の問題から考えたい。よく、「いじめ」について、それは暴力なのだから、まず警察問題なんだ、と言う人がいる。もちろん、そういった観点を否定するつもりはないが、そもそもこれは、いじめる側の

  • 快不快

に関係していることを理解しなければならない。この作品でも、硝子が転校してきた最初は、石田も植野も、非常に「礼儀正しい」わけである。しかし、さまざまな事件を介すことによって、彼らの「不快」が大きくなって、物理的暴力に発展していく。
言ってみれば、高倉健のヤクザ映画みたいなもので「堪忍袋の緒が切れる」わけである。
つまり、重要なポイントは、この不快な感情の「沸点」に至ったときに、暴力に至るというだけで、

  • 連続

なのだ。「いじめ」は、この不快感情という意味においては、どこかで区切りがあるというようなものじゃない。最後の破局的な暴力は一つの現象に過ぎなくて、それ以前からずっと、「いじめっ子」側の不快な感情は続いている。
「いじめ」は、この「いじめっ子」側が自らの不快な感情を、一時的であろうがなんであろうか、回避しようとする行動である。それによって、「いじめっ子」は、慢性的な不快感情から、

  • 快感情

に遷移する。ようするに、「いじめ」は「いじめっ子」にとっての、精神衛生上の自衛行動なのだ。
(この関係は、ツイッターにおける「ブロック」行為に似ているかもしれない。ツイッターのブロックは、「スカッ」とするから行うのであって、これはどこか「いじめ」に似ている。)
小学生の植野直花が、硝子に対して礼儀正しかった態度が変わるのは、教師が硝子を「例外」として、植野の態度を「怒った」ところから始まっている。つまり、植野は、周りが硝子を「特別扱い」して、敬して遠ざけているのに対して、平等にすべきだ、と反発を始める。
植野は高校になって、硝子と再開したとき、「お前さえいなければ全部うまくいった」と糾弾する。しかし、他方において、硝子が自殺未遂をすると、「自殺すれば許されると思っているのか」と糾弾する。まあ、結果論として、それによって、石田が死にそうなめにあった、といった意味で、硝子の石田に対する「責任」を言っているのだろうが。いずれにしろ、植野は結局、硝子にどうなってほしいのかが、よく分からない、と言うこともできるのだろう。
まあ、石田にしろ植野にしろ、そんなに、いいとこのボンボンでもないわけであろう。暴力はぜったいいけません、とかママに言われて、素直に従うというようなタマでもないのだろうし、この辺りの、子どもの頃の態度をあまり難しく考えてもしょうがないように思える。
ただ、おそらく、この作品で決定的な部分ということでは、教師からの毎朝何分かだけ、みんなで手話を学ぼうという提案を、植野が「今のままノートでいいんじゃないですか」と言うことで、反対した場面なのではないか。
この作品を通して、植野と硝子の母親に共通している点があって、それが、

  • 二人とも、手話を学ぼうとしない

という形になっている。それによって、二人とも、硝子が「普通」と違うことを「怒って」いて、硝子に「普通」になれ、なるように努力しろ、それができなければ、自分の前からいなくなれ、といった剣幕で迫っている。
つまり、どういうことかというと、植野は硝子が「普通の人のように振る舞え」と考えているし、周りが硝子を「特別扱い」して、敬して遠ざけていることを不快に思っている。
例えば、手話は言うまでもなく、健常者にとって、義務教育の必須科目ではない。だったら、なんでそんな勉強の邪魔になる手話の勉強なんかやらされなきゃいけないんだ、と。実際、硝子は転校初日のあいさつで、「ノート」による対話をお願いしていたのだから(まあ、母親からのスパルタで、書き言葉には自信があったんだと思うけど、これが小学校低学年だったら、そんなふうに言えなかったはずなんだよね)。
しかしね。こんなふうに考えてみてほしい。
もしもあなたが、ある聴覚障害者の方で、その人にとって手話がもっとも表現の方法として、やりやすいと考えている人なら、まあ、その人と今後、うまくやっていきたいと思ったら、手話を学ぶよね。手話を学ぶというのは、自分が相手に伝えたいためというより、相手の「手話」を理解したいと思うからなんじゃないのかな。だって、相手にとってはその表現方法が自然なんでしょ。
植野と硝子の母親の態度は、硝子が「自分たちに近づいてくるべき」という態度なんだよね。努力しろ、と。そして、自分たち並みに、一人前になってこい、と。しかし、そうなれないから、硝子は苦しんでいるのであって、二人の態度は、ある意味において、最初から、無理ゲーの、拒絶した形になっているんだよね。
もしも、相手のことを考えるなら、自分から相手を理解しようという態度になることが自然だよね。つまり、この場合、「手話」を学ぼうとするかどうかが、大きな分水嶺になっている。
ただし、手話といっても、そんなに簡単な話じゃない。
少しネットで調べてみたけど、いろいろと手話を学べるアプリなどもあるようだけど、そもそも聴覚障害者であっても、みんなが手話をできるわけではない、という話まである。
以下の人は、軽度の聴覚障害があったけど、普通学級で授業を受けたケースだそうだけど、

私は難聴学級などではなく、普通のクラスで勉強しました。
入学時や学年が上がるときに先生にお願いしていたのは、
・口が見える位置が望ましいので、席は前から2列目を希望する
・黒板を向きながら話さないで、話すときはなるべく前を向いてほしい
・授業の要点はできるだけ板書してほしい
・体育のときの合図は、笛ではなく旗の上げ下ろしを希望する
などです。友だちや先生の助けのおかげもあり、成績もそこそこをキープできていました。
軽度難聴の子は普通の小学校へ行けますか?? - 子供がABR検査で両耳50... - Yahoo!知恵袋

こうやって見ると、受け入れるにしても、その人に対しての、それなりの特別な配慮は必ずいるわけですよね(身体の障害とのバランスを考慮するなら、こういった「特別扱い」をすることによって、始めて、フェアな扱いが可能になる、ということでしょうか)。
植野の言うように、「硝子がいなければ、なにもかもがうまくいってた」と思うような人は、まあ、私立の学校に行って、聴覚障害の人と一緒のクラスにならずにすむように、私立の学校に多額の寄付をして、自分の子どもを特別扱いしてくれ、と便宜を図ってもらう、くらいしないと、ということなんでしょうかw
例えば、以下のサイトを読ませてもらうと、さまざまに聴覚障害の人について注意しなければならない点があるんだな、というのは気付かさせられる。

Q1 聴覚障害の人は全く音が聞こえないのですか?

なんというか、思ったのは、もっと普通のことなんだよね。
ある人が目の前にいます。その人は、聴覚障害があって、あまり聞いたり、話したりが、得意ではありません。書き言葉も問題ないんだけど、どうも、手話という身体言語があるそうで、その人はそれなら、得意、ということらしい。
もしそうなら、その人と、これから、かなりの間の、長時間の「関係」を続けていくことになりそうだ、ということなら、普通、手話を学んで、少しでも、相手のことを理解できるようになりたい、と思うことが普通なように思うんだよね。
でもそれが、学校という「制度」の中では、受験の科目じゃないことを学校にやらされるいわれはないとか、まあ、それって、

  • ルールじゃないんだから、やらなくていい

と言っているわけだ。ルールがないから、手話を学びたくない。そんな時間があったら、受験勉強に回したい、と。
植野が言っていることは、こんな感じなんだ。
(でもさ。私は素朴に思うんですけど、そもそも、この社会にルールなんてあるんですかね。だって、あなたが、ある日、だれかと一緒に長い時間を過ごさなければならないとなったとして、そこでいう「ルール」ってなんなのかな。相手と自分がいる、それだけなんじゃないかな。もしも「ルール」があるとするならそれは、その相手と決めた「約束」のことだよね。どっかのだれかが、本に書いて勝手に決めたなにかを「ルール」とか言われても、その目の前の人にとって、それが自明でないなら、一体、なにによってその正当性を担保する、って言うんだろうね。私はこういうことが「倫理」だと思っているんだよね。)
もちろん、現実問題として、例えば、小学生が独学で手話を学ぼうとしたら、相当たいへんなように思うし、そもそも、一般の人でも、聴覚障害の人にとってさえ、かなりの手話のレベルにまで行くことは、相当ハードルが高いと思われるわけで、簡単ではないことは分かるわけだけど、そうやって最初から拒否してしまったら、少なくとも、相手のことを理解できない、ということでしょう。
相手は手話による表現が「自然」なわけで、これって、例えば、外国の人とあなたが友達になったときに、その人と日本語でしか話すつもりがない、と言っていることと変わらないわけでしょう。
その最初から拒絶した態度が、植野や硝子の母の態度における、

  • 硝子を最初から受け入れようとしない

彼女への「不快」感情を結果している、ということなんだろうけどねえ...。