終わりの始まり

馬鹿馬鹿しいことであるが、世界に「目的」などない。それは、あなたがある「仕事」をしていて、その仕事になんらかの「共感」のようなものを覚えている状態に対して言うことができる。どんなに長い間、その仕事をしていようが、それが「終わる」ときは来る。大事なポイントは、たとえそうなったとしても、その人の人生がそれで終わるわけではない、ということである。
そもそも「仕事」というのは、依頼主は、なるべく単価の安い仕事先に依頼したいし、仕事を受ける側も、なるべく単価の高い仕事を受けたい。双方の利害が成立して、始めて「仕事」が成立する。
常に、なにかの「目的」は、なにかの「短期的」な目的であることを意味するのであり、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、このことを端的に言えば、あらゆる目的は「条件付き」だということである。
しかし、歴史上の多くの哲学者の議論において、この「目的」という言葉がさかんに使われてきただけでなく、なんらかの

  • 無条件

なものとして使われてきた。しかし、そうした場合に困ったことになる。つまり、「目的=エンド(終わり)」の

というのは、一体なんなのかが分からない、ということである。
どうしてこんなことになるのだろうか?
例えば、ルソーでありヘーゲルでありが考える「歴史哲学」は、その発展の究極の段階として、現代社会のような「自由社会」を構想する。しかし、彼らの議論を聞いていると、どうもこの「現代」社会は、究極の発展形ではないようなのである。つまり、ここで突然、議論の抽象度が上がる。
ルソーもヘーゲルも、そもそも、現代の民主主義社会を生きた人ではない。その萌芽の時代に生まれ、その間で考察し、葛藤した人たちである。そう考えたとき、ルソーもヘーゲルも、彼らの「個人的」な考えとしては、そういった「自由社会」が理想であったのかは怪しい、ということになる。自由社会には、さまざまな瑕疵がある。しかし、そういった瑕疵が対応された社会とはなんなのか? こう考えてくると、彼らの主張は途端に「保守的」になる。今の自由社会を「現実」といて認めつつ、この先に目指される理想社会ということでは、むしろ

つまり、「今」そのものがなぜか、目指されなければならなくなる。つまり、次のような構造になる。

どうしてこうなるのか? それは、今見え始めて実際に始まってもいる「自由社会」のさまざまな瑕疵の対応を行うということの意味が、ようするに「今のまま」であればいい、ということを意味しているに過ぎないから。
実は、上記のような世界構造を分析するような理論は非常に多く存在する。北一輝の国家論がそうであるし、伊藤計劃さんの「ハーモニー」が描いた未来社会もそうであろう(東浩紀さんの一般意志2.0もそうだと言ってもいい)。ある一定の抽象度を超えた未来の地点で、世界は

に変わる。なぜか? それは、もはや人間は「奴隷」としてしか生を許されない地点からしか、その人間という存在の様態を考えられなくなるから。
未来社会とは、今以上の「成長」をした社会である。では、この場合の「成長」とはなにか? 言うまでもない。なんらかの「パワー」が、この社会に生まれた、ということを意味する。では、その「パワー」を自らのものにしているのは誰か? それは、この問い自体が示しているように、人間の中の誰か、ということになる。つまり、そいつにとってみれば、この社会を

  • 暴力で支配する

ことは、もはや「容易」なのだ。つまり、そこまで暴力が「成長」した社会を未来社会と言う。
これが「経済成長」の成れの果てである。
人間は成長すると、奴隷になる。人間は成長によって滅びる。
しかし、これは「無条件の目的」なるものに縛られた、言わば「成長神話」と言ってもいいのかもしれない。
人間とは「多様なるもの」である。つまり、人間にとってのあらゆる「目的」は、条件付き目的でしかない。そのように考えたとき、人間の未来を、なんらかのリニアーな、単線的なイメージで構想すること自体がどうかしているわけである。例えば、あるプロジェクトが終わったということは、次のなにかが始まることを意味する。しかしそれはなんだろう? それは、むしろ、以前の「目的」とまったく関係ないところから始まると考える方が普通だ。つまり、その人は以前の目的を追い掛けていた頃から、実は

  • さまざまな関心

によって、多くのことに興味をひかれていたわけである。そういった様々な興味の萌芽の中のどれかが、次の「目的」となっていく。さて、世界は「終わる」のだろうか? いや。そこにおいて、もはや、そんな問いは不要なのだ...。