新しい学問

トランプが大統領選に勝利したとき、多くの「評論家」がヒラリーの勝利を予想していたとして、どうも、イギリスのEU離脱の国民投票のときも、離脱反対が勝利するだろうという楽観的な雰囲気の中で、反対になったケースと似ている、という印象で語られている。
しかし、それなりの専門家に言わせれば、ちゃんとトランプの勝利の目は見えていたわけです。

第二に、大統領選挙本選の勝負を決するフロリダなどの接戦州の世論調査では、トランプVSヒラリーの数字は、ほぼ統計上の誤差の範囲で拮抗し続けていました。したがって、ヒラリーが圧倒的に優勢かのように語っていた有識者らは、自分の見たいものだけを見ていただけに過ぎません。ヒラリー優勢という見解はそもそも根拠が薄弱なものでした。(世論調査総合サイト:RealClearPolitics参照)
日本の「トランプ分析」は全部デタラメだ (渡瀬 裕哉) | プレジデントオンライン

おそらく、同じことはイギリスのEU離脱にも言えるでしょう。ここで私は、トランプが問題が多いのだから、ヒラリーが勝つ「べきだった」みたいなことに反対しているわけではありません。つまり、そういったこととは別に、「トランプが勝つかどうか」は、ちゃんとデータから推測できた、と言いたいわけです。
どうしてこうなるのでしょう?
私は素朴に、「評論家」と呼ばれている人たちが、実際には何をやっている人たちなのかを、よく説明している、と思ったわけです。
彼ら「評論家」とは何者なのでしょうか?
例えば、事前のマスコミの「世論調査」においては、ヒラリーが有利でした。つまり、これをもって「ビッグデータ」上はヒラリーが大統領になるはずだった、と言うわけです。しかし、そうでしょうか? マスコミの世論調査、つまり、マスコミが一件一件の家に、電話で、どちらを支持するかと聞いて返ってくる答えと、わざわざ選挙の日に、選挙会場に行って、候補者に投票する行為を、どうして

  • 同値

で結ぶのでしょうか? それは一体、何を「担保」にして、同値だと思ったのでしょうか? ようするに、「専門家」とはこういう人たちなのです。専門家とは、なんらかの

  • 直観

を公的な場で言葉にする人たちです。つまり、思い付きをしゃべっているだけの人たちです。彼らは、太古の昔の「占い師」となにも変わりません。頭に浮かんだ「インスピレーション」を言葉にしているだけなのです。
もしも、トランプとヒラリーのどちらが勝利するのかを予測しようとするなら、実際に選挙の日に投票に行った人の数を比較しなければ、なんの意味もありません。だって、その二つは違うことなのですから。
どうして「専門家」はこのような初歩的な誤謬を犯すのでしょうか? それは、一言で言えば、専門家がなにか「学問」と違うことをやっているからなのです。
しかし、この言い方は正確さを欠いているでしょう。そういった専門家が行っていることは「古典的な学問」という意味では、それほど間違っていないのかもしれません。
しかし、です。
20世紀以降。学問はまったく違うものに変わりました。それをここでは「新しい学問」と呼びましょう。それを端的に示すのが、以下の三つのテーゼです。

  • 抽象ではなく形式(モデル)
  • 哲学ではなく科学
  • 言論ではなく実証

例えば、リチャード・ローティは『偶然性・アイロニー・連帯』において、「芸術家」の役割を論じました。これは、ヘーゲルホーリズムを強烈に意識した発言で、つまりは、

  • エリート

が社会を牽引する、というものです。一部の未来を先取りする「芸術家」が、この社会の「機微」を先取りして、この社会を揺さぶり、先に進める

を語る。これこそ、上記で私が説明した「評論家」なわけです。まさに、「占い師」とまったく同型であることが分かるでしょう。
このリチャード・ローティの言う「芸術家」は、どこかヘーゲル哲学を思わせる構造をしています。この世界を牽引する、つまり、歴史哲学をひっぱる「英雄」が、この世界を

  • 表象

する。そうして、歴史は「進歩」する、というわけです。
しかし、です。
20世紀の「新しい学問」はこういった方向とはまったく逆の様相を示しました。それを一言で言うなら「実証」ということです。学問は、

  • 実証されるべきもの

であって、それ以上でもそれ以下でもない、となりました。また、「抽象」という概念を捨てました。「抽象」ではなく、「形式」であり「モデル」となりました。つまり、「抽象」という表現は、非常に「中途半端」なロマンチックな言葉として、説得力を失ったわけです。
なにかの「形式的真理性」を示したいのなら、その「形式的モデル」の有効性をもって代替するという「作法」が一般的になった、ということなのです。これは、端的に「哲学」の終焉を意味しています。哲学ではなく、「科学」ということです。ようするに、昔の哲学的なことを述べるにしても、それは

  • 科学

の範囲で形式化されなければ、なにも言っていないのと同じ、ということなのだ。
こうやって見ると、ある時期から、学問というのは、まったく違ったものになってしまった、ということを意味します。しかし、それはなぜなのでしょうか?
古典的な学問においては、評論家が今回もトランプ大統領を予想できなかったように、評論家は無茶苦茶なことを言う人たちだったわけです。それは、昔からそうだったのです。大事なポイントは、評論家の言っていることは、一切の

  • 科学コミュニティのレビュー

を受けていない。ではなぜ、評論家はそういったレビューを受けていない命題を放言するのかというと、よく見てみると、こういった評論家が大学で勉強していたのが「解釈学」であることが分かります。ようするに、海外の偉い学者の本を必死になって「翻訳」していた人たちなわけです。
これは何を意味しているかというと、つまり「翻訳」の科学には詳しいけれど、

  • 解釈学の学者が「扱う」原典(テキスト)

を<作る>側の、「超越」性に対しては、一定の距離があるわけです。つまり、こういった人たちは簡単に、自分を「イエス・キリスト」が説教をしたような立場で、ツイッターで偉そうに発言してしまうわけです。自分が「原典(テキスト)」をつぶやく立場になったら、それはもう

  • 詩人=芸術家=エリート

なわけで、もう科学ではなく「占い師」になるわけです。
しかし、です。
言うまでもなく、だれもが自分の家庭環境を離れて考えられません。お金持ちは、基本的に自分の財産が税金で奪われるべきでないと思っているし、貧乏人から税金をとればいいと考えている。そういった「バイアス」を抜きに考えられない。つまり、そういった意味で

  • 古典的な学問

  • 新しい学問

に破れ去りました。「古典的な学問」の世界は言わば「英雄時代」の学問です。まさに、詩人が短い警句で、歯切れのいい「予言」をしてくれます。しかし、ほとんど50パーセントの確率で間違ったことを言います。他方、「新しい学問」は、その主張の解釈から大きな問題を抱えます。つまり、「新しい学問」の特徴は、そういった「解釈」といったような

  • 英雄的行為

を排除して成立したものなのであって、「なぜかは分からないけど、そうある」としか言えないような「主張」となります。これを私たちは「大衆の学問」と言ってもいいでしょう。つまり、「大衆でもできる」のが「新しい学問」なのであって、そういう意味では、学問の大衆化のことを言っていると考えてもいいでしょう...。