巻き込まれ系

アニメ「この世界の片隅に」を映画館で見た印象は、作品自体としてはよくできていたとは思うが、まあ、よくある戦争映画だなあ、という印象だ。
こういった作品は日本の場合に、とても多い印象を受ける。
つまり、いつもの「巻き込まれ系」だ。
広島市の海苔作りの家に育った、主人公の浦野すずが、呉の北條家に嫁いで行く話であるが、戦争から終戦までをはさんで、戦争の理不尽さを描こうとされたのだろうか。一つの特徴は主人公のすずの視点から、この戦争の実態が示されるという形にはなっていない。あくまで、彼女の視点からは、戦争が一体なんなのか、なぜこうなのかがよく分からない、不透明なものとして描かれている。
そしてそれは、この作品の題名が示しているわけで、この世界の「片隅」だと言いたいわけである。
しかし、こういった表現は少し違和感を覚える。呉といえば、日本の造船業の中心であり、海軍の主力がそろっている場所でもある。事実、彼女の夫の北條周作は、海軍のそれなりの役職を勤めている。
すずの視点から、この戦争が「どのように見えていたのか」は描かれない。というか、丁寧にそういった描写は避けられている。作成サイド側としては、とにかく、彼女はさまざまな「事件=悲劇」に

  • 巻き込まれるヒロイン

として描こうとする意図が見られる。なにも知らない彼女が、なにも知らないまま、知らない土地に嫁いできて、苦労をしている、というように。
なぜ、この映画に対して、ある種のフラストレーションをもつのか。それは、そもそも、この主人公はこの戦争がなぜ行われていて、

  • どうやれば止められるのか

といたことへの「答え」を、この映画は最初から用意していないし、「それでいい」と思っているからであろう。
つまり、「その程度」の存在だと考えている。この世界を動かす、そういった主人公として描こうという意図がない。
もちろん、この時代に、そういった存在が存在しえたことを想像することは難しいのかもしれない。もしも想像するとするなら、日本共産党の獄中非転向の闘争のようなものだったのかもしれない。しかし、逆にそれを描かないことで、この映画には、なんらかの

  • 救い

がないわけである。
この映画は、ようするに今の日本の雰囲気を代表している。右派も左派も喝采をあげて賞賛する。しかし、それは「答え」なのだろうか。悲しいかな、この映画は「君の名は。」とも、「聲の形」とも似ている。残酷な世界の現状を前に、美しい映像、美しい音声が、背景を埋め尽し、なにかそういった人間同士の諍いを「超えた」ところに、この世界の風景を描こうとする。それは、3・11の津波の光景が、残酷に多くの人々を殺しながら、そうでありながら、他方において、自然の、この世界の

  • 現実

を美しく描こうとする芸術の(いじめの)「残酷さ」をオーバーラップさせているわけである...。