国家への抵抗

アニメ「この世界の片隅に」について、私がずっと考えてきたことと、この作品のスタンスはおそらく違っているのだろう、と思っている。その「違っている」と言う場合に、例えば今、アメリカでは差別主義者のトランプが大統領になるということで、国民的な絶望感が蔓延しているが、そのことは、トランプが大統領になった後、さまざまな

  • 差別

アメリカ国家を蔓延する、という想定に関係した絶望感なわけであろう。こう言ってはなんだが、アメリカはもう一度、「黒人奴隷制度」を復活させるかもしれない。つまりは、こういった延長に、トランプが大統領になるということの絶望感が認識されているわけであろう。
こういった感覚は、私たちが「戦前」という形で、戦中を考えるとき、さまざまな

  • 差異

をどのように理解するのかに関係している。明らかに、明治から大正にかけての比較的、自由民権運動などがあった自由な気風が保持されていた時代と、終戦直前までの

がふきあれていた時代を、同じ「戦前」で、ひとくくりにしてはならないのではないのかと思うわけである。
おそらく、戦前の一つの区切りとなったのが、「天皇機関説」に対する「バックラッシュ」として起きた、「国体明徴運動」だったと思っている。ここから、明らかに変わったのが

  • 文部省

の義務教育に対する姿勢ではなかっただろうか。
ようするに、「神武天皇」とか、「天照大神」とか、そういった「神聖政治」がこの頃から始まる。私はこの「プレッシャー」が、戦中の日本の閉塞的な雰囲気を決定したのだろう、と思っている。
もちろん、言うまでもなく、共和党のトランプを支持した勢力には、エヴァンジェリカルと呼ばれるような、キリスト教原理主義的な人たちがいるのであろうし、それに、戦中の天皇主義者は似ていると言うことはできる。
なぜアメリカと戦争をしたのか? そんなことは言わなくても分かるであろう。日本が「神の国」だからだ。日本が負けるわけがなかったのだ。なぜなら、日本が負けるなどということを考えること自体が、天皇を侮辱する態度であり、そんなことを言うやいなや、軍法会議にかけられて、天皇侮辱罪で、処刑をされたのだから。
日本人とは産まれたときから、天皇のために、この身を捧げることが生きている理由になった。だからみんな、カミカゼ特攻隊になって、

  • 自殺

していった。日本は自殺国家になった。次々と国民は、自殺した。なぜなら、それが天皇に命を捧げることを意味したからだ。人民寺院集団自殺事件を始めとして、多くのカルト集団の集団自殺があるが、信者にとって、教祖のために「自殺」をすることこそが、

  • 美しい

信者の最も「純粋」な信仰の告白であるとされた。それは、若い、幼い少年・少女であればあるほど、その態度は「純粋」であるとして、たたえられた。
しかし、こういった「文部省」を中心とした、カルト的狂信が進む前の、大正デモクラシーにおいては、大杉栄を代表とした、純粋な「抵抗運動」が存在した。日本にも、多くのデモがあったし、むしろ、そういった「自由」を考えることは、当然の権利として、解釈されていた。
今、韓国は大統領退陣を求める、ものすごい数の人によるデモが行われているが、私が、アニメ「この世界の片隅に」を見た違和感は、なぜ主人公のすずは「デモ」に参加しないのだろう、ということであった。
例えば、もしも日本が韓国や台湾や中国・満州に対して、彼らの

を認めて、彼ら自身による「自治」を許していたら、と思うわけである。なぜそれは可能ではなかったのか。なぜ、それを求めた、日本国内での「デモ」が起きなかったのか。
おそらく、アメリカにおいて、トランプが大統領となったときから、アメリカにおいては長い「抵抗運動」が始まるであろう。そして、今、アメリカの多くの場所で行われている「デモ」こそ、その始まりだと言える。
しかし、同じことはこの日本で起きるのだろうか? 戦前と同じように、日本人はそれを「受け入れ」て、なにも文句を言わずに忍従するのだろうか...。