天皇の<当事者性>

世の中の議論をよく聞いていると、結局それって、「あなた」が決めなければいけないことなのか、というような疑問がわいてくることが往々にしてある。つまり、ひとまずそれって「当事者」がどう考えているのかに準じて処理していくしかないんじゃないのか、と思うわけである。
当事者の人が今までいろいろ生活してきて、いろいろなことを思っているなら、彼らが日々、日常において感じてきたことをまずは一次的にベースにするということを前提にして話を進めないと、いろいろな物事は決まっていかないよね、ということである。
というのは、単純に「不可知論」ということではなくて、当事者の人たちがそれについての「実益」と「被害」の両方に関わるから、ということになる。つまり、彼ら自身がそれに「コミット」して、なんらかの「納得」がなければ、そもそも続かない、という問題だと言える。早い話が人々が自らの「責任」を引き受けるのは、

  • 自分が選んだ

という「納得」があるからであって、それ以外の「秩序」などありえない、という考えに関係している。
この話が「おかしく」なっているのが、今の天皇生前退位の問題だと言えるだろう。早い話が、皇室典範とは、天皇家の「家族のしきたり」を書いたものであるはずなのに、天皇自身がそれを変えることができない。なぜなら、皇室典範は戦後、

  • 法律

となったからで、明治の頃であれば、それは天皇家の人たちの都合でいくらでも変えられたはずなのだ(こういったことを、今週の videonews.com で木村草太さんが言っているが)。
現在の有識者会議は、日本会議に乗っ取られていて、いくら天皇皇室典範を変えたいと言っても、なんとしてもそれを阻止してやると「宗教的狂信」よろしく、主張している「君側の奸」に占拠されているわけであるが、そもそもあの天皇によるテレビでの訴えは、今の政権が「許可」して行わせているわけであるから、あの主張に反した方向を今の政権がこれから行うというのも、おかしな話なわけであって(だったら、なんで天皇によるテレビでの訴えを許可したのか、ということになるわけで)、まあ、よく分からない「政争」が起きている、ということなのかもしれない。
私がここで言いたいことは、そもそも明治憲法下では、いくらでも天皇自身が「勝手」に皇室典範を変えられたし(まあ、家訓のようなものだから)、それでなんの問題もなかったのに、なぜか「戦後」になって、天皇が「象徴」となった途端に、

と不遜にも主張する「君側の奸」があらわれたわけだけれど、じゃあなんでそんなことを、この人たちが言えるのかというのも、「戦後民主主義」のおかげだというわけだが、困ったことに彼らは戦後民主主義を止めて戦前の明治憲法に戻ろうと言っているわけで、まあ、何をか言わんや、というわけです...。