子供の<責任>

果して、子供に「責任」はあるのだろうか? こう言うと変な気がするかもしれない。しかし、子供とは「まだ大人ではない」というのが子供の定義なのだから、その子供になんらかの「責任」を問うというのは、(家族の中のしきたりとしては理解できても)社会のルールとしては限界があるんじゃないのか、というわけです。
それは、少年法の考え方にも反映されているわけで、少年法は基本的に少年院に子供を移送はするが、子供は別に死刑になるわけではない。つまり、ここで言う「罪」とはなんなのだろう、とは思うわけである。
だとするなら、この社会において、子供は罪とは

  • 親の罪

だということになるわけだが、それもちょっと違って、親の「教育の罪」といったようなニュアンスとして解釈される。まあ、「親のしつけ」というわけである。
しかし、ここで問題が一つある。親がいない子供である。
アニメ「ViVid Strike!」において、リンネ・ベルリネッタはフーカと同じく親のいない孤児院の子供であったが、富豪のベルリネッタ家の養子となる。彼女は学校の同じ生徒の「いじめ」に対する「仕返し」をしたこと、それによってベルリネッタ家の人たちに

  • 迷惑をかけた

ことに対する「罪」を意識して、自らの未来に絶望するわけだが、この文脈には非常に大きな違和感を覚える。というのは、リンネがたとえ、「いじめ」た同級生に対して行った行為が「正当防衛」の範囲を超えていたとしても、そもそもそれは、子供に問える

  • 責任

の範囲だったのだろうか、という疑問である。子供たちが「いじめ」や「けんか」をすることは、ある意味において、「自然史的過程」の中の行為であって、これに対して、なんらかの「抵抗措置」をこうじる必要を課せられているのは、大人の側ではないのか。
リンネの言い分を分析すると、彼女の感覚としては自分を「ベルリネッタ家」の

  • 子供

であるという感覚がない、というところがある。彼女の感覚はフーカと近く、今でも自分は両親がいない、孤児院の子供だと思っていて、ベルリネッタ家は、あくまでも、「仮の住処」として優しく「養育」してくれている人たちだと思っている。しかし、社会的には、彼女は「養子」として、ベルリネッタ家の「戸籍」上の子供なわけであり、その扶養の義務はベルリネッタ家の両親に当然あると、社会的にも思われているし、両親にもその自覚があるわけであるのだが。
おそらく、孤児院の子供の養育権は、その孤児院の責任者が担っているということになるのだろうが、この作品の眼目としては、こういった社会の「隙間」を狙っている、ということになるのであろう。
例えば、桜庭一樹の小説『ファミリーポートレイト』において、マコの子供であるコマコは、「戸籍のない子供」として、母親のマコに育てられるわけだが、この日本社会から逃げるようにして、学校にも行かない。では、この場合、コマコには

  • 責任

と言えるような社会的な概念は成立するのだろうか?
例えば、作家の坂口安吾は戦前の人であるが、彼の父親は新潟の議員だったそうだが、初期の作品を見ると、その父親への嫌悪感を明確に表明しているわけで、というか、そもそも日本の文学においては、父親との「対決」が長くテーマとして取り上げられ続けてきた。親というのは、子供をさまざまな形で「拘束」する存在なのであって、そのことは、日本の「家制度」と深く繋がるものとして解釈されてきた。こういった問題意識をもたずに、子供の親に対する「依存」を無自覚なままに、たれ流すようになったのは、つい最近の現象のようにも思われるわけである。
往々にして、その傾向は、富裕層の子供に見られるわけだが、大学への入学も無難に親の思っていたような所に入学すると、子供と親の間になんらかの「対立」が生まれる契機がないままに大人になってしまうわけで、普通に親が

  • 友達

と同じような感覚となっていく。そうなってくると、そもそも、坂口安吾が思っていたような、親と対決する子供といったような様相が、なかなか分かりにくくなっているのかもしれない。
子供とは家制度においては、親の「財産」を引き継ぐ存在である。戦後、その財産は、子供の間での均等な分割が法的に強制されたわけだが、そもそも「家制度」は、長男が「全部」引き継ぐとなっていた。なぜなら、長男とは「家」を引き継ぐ人なのだから、そうでもしなければ、「家」などという制度は、長続きしなかったのだ。
このように考えたとき、家制度は子供に家の「財産」を継承されることを義務づける目的があったわけで、そう考えたとき、家というのは一種の「会社」と同じような性格をもっていたわけで、なんらかの

  • 身分

の継承を「家」という形で行っていたことが分かってくる。つまりこれはどこか「天皇制」に似ているわけで、子供は親の命令に逆らえない。親が家を継げと言ったら、その「運命」を受け入れるしかない、といったものとして解釈されてきた。
つまり、子供の「自由意思」を否定していた。このための「モラトリアム」として、子供の「責任」概念を、親の「扶養義務」に置き換えてきた、といった性格があるとも考えられるわけである。
上記のリンネ・ベルリネッタの「悩み」は、こういった延長において考えられなければならないわけで、彼女がここで言っている「責任」は、そもそも、なんの責任なのか、ということになる。彼女が、もともとの生まれとして、孤児院で育てられた「親なし」としての責任なのか、富豪ベルリネッタ家の養子としての「親あり」としての責任なのか。
フーカの言っている問題は、リンネ自身の「人間」としての優柔不断さ、のようなものを問題にしているように思われるわけだが、そういう意味では、同じ孤児院で一緒に育った「義兄弟」として、リンネを兄として注意している視点だと言えるのだが、じゃあ、リンネが「こだわっている」問題は結局、なんなのか。
こういった問題設定に違和感をもたれるかもしれない。そういう意味では、リンネは混乱している。彼女は子供なのであって、「扶養」される存在として社会から見られているにも関わらず、彼女にその意識がない。そういった態度を、それそのものとして「理解」しているのが、すでに、孤児院を離れて、下宿付きで「一人の大人」として、働いている幼ななじみのフーカ唯一ということになるのだろうが、そのことは何を意味しているのだろうか。
リンネの感覚としては、まだベルリネッタ家は「他人の家」であって、いつでもそこから「社会的に追い出される」ことを考えているし、フーカのように、一人で、いつ独立して生きなければならなくなっても不思議ではないと考えている。じゃあ、そういう意味で、彼女は「大人」なのだろうか? いや、そう考えると、そういう理屈も正しいように思われてくる。
一体、子供とはなんで、なにをもって子供だと、私たちの社会は考えているのだろう。なんとも、よく分からなくなってくるわけである...。