<非左翼>エリート

例えば、柄谷行人トランスクリティークとして、カントとマルクスフロイトを挙げたわけだが、彼らに共通した視点は、人間の能力の限界について言及したところではないか、と思っている。もっと正確に言うなら、人間の「自己」についての「観察」の客観性の限界と言ってもいいであろう。つまりは、認知的不協和について、ここでは考えたいのだが。
私たちは世界の残酷さに向き合えない。そう言う場合、私たちを「規定」しているものが、そのように私たちを作ってきたから、と言うことができる。この現代という資本主義社会で人間が「幸せ」になることはない。なぜなら、他者を地獄に落とすことでしか、自らの幸せを掴むことができないのにも関わらず、それは人の道に反しているからだ。
そこでブルジョア倫理は、「他者を<いじめ>る倫理」を発明した。

  • いじめられっ子はいじめっ子に<進化>する

人はこれを嗤うかもしれない。しかし、実際に子供の頃、いじめられた経験をしているのは、富裕層の子供たちであって、貧困層の子供が富裕層の子供をいじめる。彼ら富裕層の子供たちは、その頃の

で、いかにして大人になったら、貧困層の人たちに

  • 仕返し

をするのかにしか興味がない。これが「グローバリズム」だ。グローバリズムとは、反ナショナリズムのことを意味して、国内の「貧困層」をさらに貧困にさせて、富裕層が「儲かる」<からくり>を、

  • 海外

を使って実現する。海外は国内的な民主主義ルールの「範囲外」であるので、そこはアナーキーでやれるので、海外のそういった連中と「グル」になって、国内の昔自分を「いじめ」た貧困層をさらに貧困に追い込んで、彼らは子供の頃の

  • 復讐

を果たす。基本的にグローバリズムだとかフラット化とは、一種の国内の労働者をより「劣悪な労働環境へ落とす」ことを目的としている。イギリスの産業革命の頃、イギリス国内の労働者は劣悪な労働環境を強いられた。その後、社会主義との対抗運動などの関係で、資本家たちは労働者への「福祉」の充実を強いられてきたわけだが、早い話が、昔のイギリスの産業革命の頃のような「低福祉」の状態に戻れば

  • 資本家は儲かる

というわけであるw
いわゆる、左翼を否定するということは、こういった資本主義の運動を「肯定」しているということと同値だと言える。つまり、資本主義の運動が「グローバリズム」であり「フラット化」なのだから、こういったものを「現状肯定」している時点で、彼らは資本主義の運動を肯定している。彼らが否定するのが、たとえ、スターリンの独裁政治であり、つまりは、スターリン共産主義であり、だから、左翼はダメと言ってみても、そのことが結果として、そのオールタナティブとしての資本主義の運動に、なんの対抗運動を見出せない。というか、そういった対抗運動そのものが「左翼」なのだから、その左翼の否定そのものが、そういった対抗運動と矛盾しているわけである。
これが、凡庸なエリート主義と言ってもいいであろう。
もしも、左翼と右翼の対抗軸を考えることに意味があるとするなら、それとは別の対抗軸として、エリートと大衆を考えることができるし、お金持ちと貧乏人を考えることができるし、ブルジョアプロレタリアートを考えることもできる。
そもそも資本家とは、労働者を「悲惨な労働条件」で働かせれば「儲かる」連中なのであって、つまりは、

  • 労働者が「不幸」 になると、「幸せ」になる連中

なのであって、他人を不幸にして幸せになるような人なのだから、そもそも彼らとナショナリズムは相性がよくない。しかし、彼らと「エリート主義」は相性がいいw エリートとは子供の頃から、回りの大衆を「自分より能力の劣る連中」として、馬鹿にして生きてきた人たちのことであって、彼らエリートは国民を下等な存在、つまり、奴隷として扱うことに、なんの違和感ももっていない。彼らが「仲間」と思っているのは、国内、国外を含めて、同じ「エリート」たちなのであって、エリートでない人たちを馬鹿にしているという意味では、国民を馬鹿にしているわけである。
エリートはエリート同士で「仲間」なのであって、それ以外は「敵」であり、奴隷である。つまり、彼らはそういった「奴隷」がいくら不幸になっても、心が痛まない。なぜなら、エリートは同じエリート以外は人間だと思っていないからである。
しかし、そのように考えるなら、ここにある構造が分かってこないだろうか?
まず、資本家は労働者を「不幸」にすることによって、自らの資産を最大化するという意味で、彼らは

  • 労働者が不幸だと、自分が「幸せ」になる

という意味で、人の道に反している。他人を「不幸」にすると、自分が「幸せ」に思えるというのは、一種の「サディズム」であって、ということは、反語的な意味においてそうだということであって、直截に言えば、自分以外の日本人を不幸に落として、自分が幸せだとか言っている時点で、こんな奴は「非国民」であって、早く日本から追い出せばいいわけである。
日本人が嫌いなら、どうぞ、日本から出ていってくれないかな。日本人を不幸にすると「幸せ」になるような人が、回りにいてもらうと困るんですよね。私は思うんですけど、日本人が嫌いで嫌いでしょうがないという人はいると思うんですけど、そういう人は日本の外で暮せばいいし、働けばいいですよね。そうすれば、そこは日本じゃないのですから、そこで一緒に住む人たちと「一緒に幸せになろう」と思うことができて、ハッピーだと思うんですよね。
ここで大事なポイントはなんだろうか?
ようするに、上記の議論はそれぞれ関連し合っていて、左翼の「否定」というのは、結局のところ「資本主義の運動の現状肯定」を意味するしかなく、ということは、資本家の、労働者を不幸に落とすことで自分が「幸せ」になるというサディズムを肯定することであり、つまりは同じ日本人でありながら、昔、自分を「いじめ」た貧困層の人たちが「不幸」になると、ルサンチマン的な快楽を感じる自分を肯定することであり、つまりは、それが

  • エリート主義

だということであり、まとめるなら、

  • 左翼の否定=エリート主義者

だということになる。エリートがここまで勉強を「がんばる」モチベーションは子供の頃に自分を「いじめ」た連中に「復讐」をすることである。つまり彼らは、日本が嫌いであり、日本人が不幸になると幸せになる。まあ、彼らの心の中では、子供の頃の自分を「いじめ」た彼らが悪いのであって、いじめっ子の人権なんて必要ない。奴隷としてこき使うのは当然と思っているのだから、まあ、それがエリートと非エリートの違いだと思っているのだから、なんで日本人を不幸にして悪いのかが分からない。
彼らは「ナイーブ」に悪を行うのであって、本気で人権とか、差別とか、優生学とかのなにが悪いのかと思っている。そもそも彼らは、ナチスのエリート主義にあこがれているし、なぜナチスが悪いのかが理解できない。ナチスは自分たちを「エリート」と称していたし、今の「エリート主義者」と

  • 同じ

ことをナチスは実際に言っていた。今の「エリート主義者」はナチスに学んでいるのだ。
しかし、反対に彼ら「エリート」の人権が脅かされると「エリート・パニック」を起こす。つまり、彼らにとって「エリート」というのは「人類にとって価値のある存在」なのだから、エリートは特別に人類から扱われなければならない、と思っている。エリートが滅びたら、人類が滅びてしまう。だから、なんとかして

  • 地球を救って

というメッセージは、一瞬にして、

  • エリートを救って

というメッセージに同値変換される。「地球=エリート」というわけである。
しかし、最初の話に戻ってみようではないか。そもそも、自分の身の回りの人が「不幸」になっているのに、どうして自分が「幸せ」になれるだろうかw 回りで困っている人がいるのに、その人がつらい思いをしている時に

  • 自分は幸せ

と言うのは自己矛盾していないだろうか。しかし、これが「資本家」であり「エリート」なわけでしょう。なぜなら、エリートになるためには、子供の頃から、膨大な「苦労」をしてこなければなれないわけでしょう。人の何倍の勉強をさせられる「苦行」に耐えなければならないわけで、もしも

  • それだけの苦労をする価値がなければ

わざわざ、だれもエリートになんてなろうと思わないよねw それは資本家も同じなわけで、彼らは

  • 資本家・エリート=幸せ

という「方程式」が存在するということを信じて、今まで生きてきた、ということなんだよね。だから、たとえ回りに不幸な人がいたとしても、

  • 自分(=資本家・エリート)は幸せ

という「パフォーマンス」を演じていなければならない。そうじゃないと、自分の行動が矛盾している、ということを意味してしまうので、なにがなんでも、自分が「幸せ」であることを演じなければならない。というか、そう「信じて」今まで生きてきたのだから、そもマインド・コントロールの中にいるので、自分が「幸せ」でないかもしれないなどという「鬱展開」を想像すらできないし、したくない、ということなんでしょうね...。