当事者としての<子供>

私たち大人になんらかの「責任」を問えるのは、私たちが「子供」という段階を経て、「大人」になるための「教育」を受けてきた、と扱われているから、と考えることができる。それが「当事者性」であり、私たちは「子供」という教育の過程において、なんらかの

  • 責任の引き受け

を行うための「手続き」を経てきた、と考えられているのだ。
私が今、大人として、なんらかの「責任」を引き受けようとしているのは、私が子供の段階において、なんらかの「コミットメント」を行ったから、と考えられる。つまり、私は大人になることを引き受けたし、大人になったときに自らに要求される「責任」を引き受けることに同意した、というわけである。
では、もしもこういった過程をまったく経ることなく「大人」になった子供は、社会の約束事を自らで引き受けようとするだろうか? おそらく無理であろう。例えば、なんらかの義務教育過程を、なんらかの理由で受けることのできなかった子供は大人になったからといって、大人として扱うことはできない。やはり、なんらかの方法によって、その義務教育と同等のカリキュラムを受けることなしには、大人として社会は扱わないのではないだろうか。
大事なポイントはなんだろう?
ある子供が、存在する、と言うとき、私たち「社会」はそれを

  • 誰の子供

というふうに、形式化している。つまり、私たちはある子供を「ある大人」との紐付けなしに考えない。必ず、子供にはその「保護者」となる大人(普通は親)がペアで考えられる。ここに当事者性がある。その子供は確かに「不完全」かもしれないが、少なくとも、その「保護者」に責任を問うことはできる。そうであるなら、この社会の秩序はそれによって担保される。つまり、子供とはこの世界の「影」の存在なのであって、社会は子供を全面に置かない。子供が「たとえどうあろうとも」社会は、その子供なしに、なんらかの責任の体系を形作る。子供は「透明」なのだ。
しかし、である。
もしも、ある子供の産みの親が二人とも死んでしまったら、どうなるだろうか? おそらく、社会的には、この子供の「親戚」なる人が現れて、この子供の「保護者」となるであろう。しかし、本当にそうだろうか? つまり、まったく誰も引き取り手が現れない場合は、そんなに蓋然性の低い話なのだろうか。
ある赤ん坊が、通りに捨てられていたとする。この通りはそれほど人通りが多いわけではなく、今発見した自分がなんらかの「助け」を行わなければ、その子供が死んでしまうことはかなりの確率で予測されるとする。しかし、私はその子供の親ではない。私はその子供になんの助けも行おうとしなかったために、その子供は死んでしまった。なぜなら、私には私の人生があって、そっちで手一杯だったから、というわけである。
さて。子供は、自らの力では生きていけない。必ず子供は、大人の保護を受けなければならない。しかし、それは誰なのだろう? 一体、だれが子供を助けてくれるのだろう。私は不思議な問いを行っているのだろうか? というか、私はここで、

  • なぜ、この世界にはそのための「ルール」を用意していないのか?

と問うているわけである。なぜこの問題は「ルール化」されていないのだろう?
さて。子供は「生きる権利」をもっているのだろうか? もし子供に「生きる権利」があるなら、上記の議論から、必ず、どこかの誰かの「大人」が、その子供を養育しなければならない、ということになる。しかし、私たちは、それが誰なのかを論理的に演繹するルールをもっていない。それは、その子供の「生きる権利」を保証していることになっているのだろうか?
ようするに、どういうことなのだろう?
どうもこの社会は、「自分と血の繋がりのない子供を育てたくなければ、育てなくていい」という暗黙のルールがあるようである。なぜなら、例えば、あなたが東大受験をやろうと思っているとしよう。それなのに、ある子供を育てなければならないなどとなったら、受験のための勉強の時間をとれなくなるであろう。しかし、そんなことを言うなら、だれだって「忙しい」のであって、だれもやらないということだって、原理的には考えられる。そんなことでいいのか?
一つだけはっきりしていることは、その子供をすべての大人が「養育」を拒否したら、その子供は死ぬ、ということである。では、その場合に、その子供が死んだ「責任」は一体、だれにあるのだろう?
例えば、あなたは「そんなの血が繋がっていない子供を<かわいい>と思えるわけないだろう」と、ダーウィン進化論よろしく考えたとしよう。自分の子供以外が死んでも、なにも悲しくない。自分の子供だけが「かわいい」と。
しかし、そういった反応に対して、私はアイロニカルになる。もしも「遺伝子」が問題なら、あなたは「兄弟の子供」だったら、「人の子供よりかわいがれる」ということになるわけであろう。なぜなら、遺伝的には他人より近いのだからw また、もしもその子供が大きくなってきて、いかに「親」である「あなた」の性格が

  • 鬼畜

であることに気付いて、「こんな親を親として扱いたくない」と、家を出ていったら、それでも、どこまでも「自分の親」として、かわいがれるのだろうかw
ようするに、ここには親の側が子供に対して見ようとしている、ある「幻想」があるわけである。
きっと子供は、親に

  • 恩返し

をしてくれる。きっとそのはずだ。自分の老後を見てくれるはずだとか、大人になって孤独老人になっても、子供はずっと自分を見放さないはずだ、とか。
しかしねw 鬼畜の親にどうして子供が「なつく」と思えるのかなw 道端で死にそうになっていた子供を、自分が東大に合格するための勉強がしたいからって、見殺しにしたような「鬼畜」な親を、子供はどこまで誇りに思うものなのかな...。