<家族>とは誰か?

大人にとって、子供とは「扶養」する「義務」をおう、なんらかの「義務」に関係した存在だということになる。そういう意味では、子供というのは、それ「自体」としての属性をもたない。必ず、ある子供は

  • だれだれ(=大人)の子供

という形式によってしか記述されない。つまり、ある子供を「それそのもの」として私たち大人は理解することを、社会から要求されない。つまり、子供の「人格」を、この社会は認めないのだ。ある子供がいたなら、その子供が「だれの子供なのか」を理解すれば、その子供の「本質」を理解したことになる。子供を理解するのに子供は不要なのだ。
しかし、である。
こういった認識を、ここで「子供の側」から考えてみようではないか。子供にとって、自分が「生きる」ということは、どういうことなのか、と。そうすると、ここで言う「家族」なるものが、まったく違ったものとして現れてくる。
アニメ「ViVid Strike!」の第10話において、両親のいないフーカ・レヴェントンとリンネ・ベルリネッタは幼い頃を一緒の孤児院で、まるで、兄弟のようにして、常に一緒に行動して育った。最初、自らを「不幸な孤児」として、まったく笑うことのなかったフーカは、リンネの優しさに次第に心を許すようになり、笑うようになる。フーカは、今。自らの罪を許せず苦しんでいるリンネを、放っておうて、自分だけが「幸せ」になることができない。
しかし、私たちは普通、こういう「関係」を「家族」と言うのではないだろうか? つまり、幼い頃のフーカとリンネは、ある意味において、二人だけの「家族」だったのだ。家族とは「心を許せる」関係である。安心しているから、家族が作る食事を食べられる。安心しているから

  • 笑える

のである。笑うという行為は、最初に家族に対して行うものであって、多くの場合、その後に家族以外の人に向けても笑う行為を覚えるわけだが、それは家族に向けた笑いを真似たものなのだ。
しかし、こういった認識は上記で議論した「常識」と著しく違っている。家族とは「大人」と「子供」のペアの関係のことであったはずであって、だからこそ、子供は論理上

  • 無視

できた。子供は大人たちの「道具」であって、「おもちゃ」であって、子供とは大人にとっての「対象」でしかなく、

  • 主体

ではなかった。ところが、それを「子供の視点」から見たとき、様相は一変する。
子供にとって「家族」とは、自分が安心できる対人関係であり、自分が笑える対人関係である。そこにおいて、相手が子供か大人かは関係ない。フーカとリンネにとって、お互いが「家族」であることは、大人は関係ない。むしろ、家族の定義において、大人は不要なのだ。
フーカにとって、リンネは自分の家族だ。だから、フーカはリンネが苦しんでいたら放っておけない。しかし、だとするなら、私たちにとっての「家族」とは一体、誰のことになるのだろう? 彼女たち、二人の戦いは「親にとっての自明な子供」といったような、私たちの凡庸な常識を根底から揺さぶるのだ...。