東浩紀に呪われた柄谷行人

それにしても、「批評という病」という東浩紀さんの文章は、あいかわわらず柄谷行人の『探求』がヤバいとか言ってるんだw 自分の卒論の題材を今だにヤバいとか言って、それを卒論にしたオレってヤバいって感じなんでしょうねw ネトウヨの日本ホルホルと変わんねーな。しかも、驚くべきなのは『探求』の中身の話をまったくしていないんだよね(それが「表象批評」だ、とか言うんだろうけど、ほんと「表象批評」って、なんかのゴミの掃き溜めなのかな。なにも言ってない、言わないことで精神的に優位に立とうという「お遊び」でしょう。本気で、ただの害悪にしか思えない)。批評の「病」とか、たんに、東浩紀さんの柄谷行人への「中二病」を告白してるだけじゃないか。

彼は『探求2』のある注で、大胆にもつぎのように記している。「私は、べつにデカルトウィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってもかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ」。
東浩紀「批評という病」)

ゲンロン4 現代日本の批評III

ゲンロン4 現代日本の批評III

彼はつぎのように記している。「もし日本で(少数の)批評家や作家が、それら[欧米の理論を学ぶ]哲学者や社会学者と比べて、むしろ "内容" 的に貧しいにもかかわらず、ある優越性をもちえた(と私は思う)としたら、その理由はいうまでもない。《批評》が方法や理論ではなく、生きられるほかないものだからである」。
東浩紀「批評という病」)
ゲンロン4 現代日本の批評III

こんな感じで、たんに、存在論的で実存的な柄谷の発言を引用して、

と言っているだけ。柄谷ヤッベーと。存在論だったらハイデッガーを語ればいいし、実存主義ならニーチェキルケゴールを語ればいいんで、もう、こういった「哲学ごっこ」を、なんで恥ずかしいと思えないんだろう。まったく生産的じゃない。なにか意味のある、読者にとって有用な情報を提供したいんだったら、具体的なコンテクストにそった「内容」のあることを話せよ。もう、こういった「話芸」はうんざりなんだよ。