日本的ファシズム

日本のナショナリズムの特徴の震源が結局どこにあるのかということについては、私は最後には「宗教」に行くと思っている。つまり、神道系の文脈なのであって、そこには、天皇でもいいのだが、ある「崇拝」を形にしよう、という表現になっている。
それに対して、朱子学系のいわゆる「儒教」は、そういった土着の「宗教=習俗」に対する「抵抗運動」として始まっているのだと思う。だからこそ、儒教は基本的に、鬼神を理論から排除するわけで、唯物論で政治を行おうとする。しかし、日本的な文脈においては、そういった朱子学が中国本土において「戦っていた」文脈が捨象されて書物だけが輸入されてくるから、簡単に土着の「宗教=習俗」と癒着しちゃうんだよね。
日本のナショナリズムを一言で言うなら、「お上に逆らうな」としか言っていないことにあるんだろう。

  • お上に逆らう ... 社会的抹殺(村八分
  • お上に逆らわない ... 絶対服従・丁稚奉公

だから、日本の上の役職の人たちも基本的なマインドは「丁稚奉公」なんだよね。おそらく、東條英機ですらそうなんだと思う。まあ、陸軍、海軍の士官学校は、幕末の長州・薩摩のマインドの延長にあるので、そこにある「宗教性」を問題にしないと、どうしようもないんだよね。
私はいわゆる「身分」性社会の特徴はここにあるのだと思っている。上の身分の人というのは、じゃあ、

  • なぜあなたは上の身分なのか?

に答えなければならない。なにか理由があって、私は上の身分をたまわっているんだ、と。そうすると、まあ普通に考えると

  • お上の命令に今まで逆らったことがない

から、としか言いようがないわけでしょう。もっと言えば、

  • お上が「お前は死ね」と言ったら死ぬ

これこそが、究極の「身分」なんだよね。ある意味死んでいるから「特別」なのであって、宗教儀式における「神への供物」と同じなのだ。

皇統の護持とは、連綿と続く天皇の血筋を絶やさぬように、御守りしていくことです。ところで、なぜ皇統は、守らなければならないものなのでしょうか。
後にも登場しますが、江戸時代中期の神道家で、闇斎門下に師事した竹内式部の書物、『奉公心得書』の文章にその理由が集約されているように私は思います。
ここでは、同書から二つの文章を取り上げ、口語訳し掲載します、。
「大君(天皇)が、この国の君主となってから、世の中は、よく治まり、民の衣食住も不足なく、人が人である道(道徳・倫理)も明らかになった。その後、歴代の大君から今の大君にいたるまで、大君は人間ではなく、天照大神の子孫であり、神様である。天皇が即位されることを『天の日を継ぐ』という。天日(太陽)の光が及ばないところには、草木は生えない。
であるので、世の中のあらゆるものは、天日のお陰を蒙っているのである。また、大君は父であり、天であり、地であるので、生とし生けるもの、人間はもちろん、鳥獣にいたるまで、みな天皇を敬い尊び、各人の才能を尽くして、そのお役に立ち、二心なく奉公しなければならない」
楠木正成の言葉に、天皇を憎む心が起ったならば、天照大神の御名を唱えよとある。御名を唱えることによって、天照大神の御恩を思い出すからだ。そして、思い出したならば、神の御子孫の天皇が、どのようなご無理を仰っても、怨みを抱くことはなくなるだろう」
(濱田浩一郎「第一部第一章」)

靖献遺言 (せいけんいげん)

靖献遺言 (せいけんいげん)

まあ、典型的な太陽信仰であり、農業共同体の土着的な行動規範なのだが、そこに儒教の「父親」を家長として崇拝する家族の道徳も根拠づけられる。
「お上に逆らう」というのは、太陽の恵みに対する感謝を忘れて、「ばちがあたる」ということと同様に解釈されている。そうして、天気の「恨みを買う」なんてことになれば、ずっと天候不良で作物がとれなくなって、飢饉になって飢え死ぬ、と。だから、太陽の機嫌をとるためなら、村の処女の女を、

  • 生贄

として捧げることなど、いくらでも起きる。この延長線上にカミカゼ特攻隊もあるわけで、すべては「神への供物」。吉田松陰が言っていることも、この天皇という「玉」を利用して、天皇に国民への説得をさせれば、国民をなんでも

できる、というのは、こういうメカニズムなわけで、カルト宗教の究極が教祖のために信者が次々と自殺していく「集団自殺」にあるとするなら、宗教はこの「狂熱」を止められない。結局、もともとの朱子学の発想が一つの土着の宗教のコントロールだったはずで、そのために親への恭順だったり、国家への奉仕の義務だったりが「合理性」の下においてあったはずなのに、日本に輸入されてくると、むしろ、土着の宗教を「根拠付け」、「補完」するものとして理論化されてしまう。そして、むしろ、儒教における親への恭順が、

  • 宗教的な根拠

をもったものとして、「狂信」化していくわけである...。