人間の<動物>化

アニメ「ソードアートオンライン」は、キリトという少年がヴァーチャルリアリティの世界で、活躍する話であるが、そこで彼はヒロインのアスナと出会う。そして、そのロールプレイングゲームの中で、彼女と結婚するわけだが、お互い、まだ高校生なわけで、現実世界に戻った後、恋愛関係にはなるが、結婚までは行わない。
ここで私がSAOのアスナについて言及したのは、いわゆる「薄い本」と呼ばれる二次創作において、アスナは「一世を風靡した」と言ってもいいくらいに、多くの二次創作が作られた、というわけで、なぜそこまでオタクたちは、アスナを「嫁認定」したのか、を考えてみたかったわけである。
この作品が興味深いのは、つまりはヴァーチャルリアリティの世界のロールプレイングゲームなのであって、つまり、「現実ではない」というところにある。それぞれの二次創作において、アスナはさまざまな残虐な扱いを受けるわけだが、それは、ひとまずは「ゲーム」内のものでしかない、という扱いとなっている。
確かに作品それぞれは、ひどい内容なのだが、ここで問題にしているのは、そういった「ありふれた」残虐表現が「いつも通り」に「ひどいね」ということを確認したいのではなく、なぜここまで「多くの種類」が生産されたのか、の方にある。
例えば、オンラインゲームには、多くの場合、「隠しコマンド」というのがある。それによって、ドラッグを使った「セックス」を、ヴァーチャルリアリティとして、ゲームの中で行えるようになる。
ヴァーチャルリアリティの世界においては、現実世界の「肉体」は、もちろん現実にある。つまり、ベッドの上で「寝ている」状態となる。つまり、現実側の意識はない。意識はないが、脳は動いている。つまり、ヴァーチャルリアリティ側で必死に「生きて」いる。つまりこの場合、私たちが日常において行っているような

  • 判断

はむしろ、ヴァーチャルリアリティ側で行われるようになる。手をスワイプすると、手元に選択パネルが現れ、私たちが現実世界において、オンラインゲームの「オプション」を選ぶように「そこ」で選ぶ。
こういった状況は、ある種の「デカルト問題」が問われていることが分かるであろう。私はベッドで寝ているのだろうか、現実世界で行動しているのだろうか。この二つを「区別」する本質的な差異はない。
つまり、すべては私たちの「神経系」が私たちに見せている、神経系の興奮運動でしかないのではないか、という疑いなのである。

  • 人間を<壊す>

と言うとき、二つの種類がある。一つは一般的な意味における「死」であって、生物学的な肉体、細胞が死んで、土に帰るタイプである。もう一つは、より本質的である。意識はあるが、それが「正常」に働かない状態。例えば、覚醒剤によって、普通の人のような「理性」を失うような状態であり、「動物」に近い意識しかなくなる。例えばそれは、「家畜人ヤプー」のように、「脳の手術」によって、人間らしい判断ができない状態にまで「堕とす」わけである。
脳神経学の発達によって、より「ピンポイント」での、人間の「動物化」の方法が洗練されていくであろう。「家畜人ヤプー」では、脳の「縮小」であったが、ある脳の一部の「機能」を破壊することによって、簡単に、しかもより「正確」に人間の「動物化」を実現できるようになる。
ある「お金持ち」が子供の頃に、貧乏人の子供に「いじめ」られたことの恨みを、大人になって、国家権力に御用学者的に「擦り寄る」ことによって、達成する。国家権力なので、あらゆる「犯罪」を揉み消せるのだから、「お金持ち」はお金で国家権力を買収して、子供の頃に「いじめ」られた貧乏人を、

するわけである。そうして、そういった「動物化」された貧乏人を、自らの「家畜」として、家の中の「家畜的な労働」を行わせる。いや、行わせるだけではない。彼らはアメリカの南部で過去に行われていた「黒人奴隷」と同じなのだ。お金持ちの主人は、いつでも、自らの

  • ストレス

を、彼ら「奴隷」に向ける。奴隷を虐待することで、お金持ちは「スカッとする」わけである。生かさず殺さずで、お金持ちは過去の「いじめっ子」の奴隷たちを殴り、蹴り、日頃のストレス発散を行う。それが彼らの「欲望」である。
人間を「動物」にする「手段」として、最初に行われるのが、

である。普段は理性的で世間からも一目おかれている、気高い女性の食事に、相手に知られないように、なんらかの覚醒剤を混ぜて、精神を破壊する。もしも、こういった「手段」が人工に膾炙したとき、

  • 人間の終焉

が見えてくる。つまり、すべての人間の脳の破壊である。ある貧乏人の脳を破壊することに喜悦を覚える、鬼畜のお金持ちはいずれ、その悪行が貧乏人たちにばれて、「報復」を受ける。そうして、

  • すべての人間の脳の破壊

が実現する世界が現れる。人は自らの「欲望」に従って生きるとき、他人も自らの「欲望」に従って生きているのだかが、必ず「報復」をくらうことになる。自分が「楽しい」ことは、他人も「楽しい」。
SAOの二次創作において、アスナは鬼畜の扱いを受ける。しかしそれは「死」ではない。というのは、現実の世界の肉体はたんにベッドの上で寝ているだけだからだ。しかし、それは

ではある。ヴァーチャルリアリティのロールプレイングゲームにおける「隠しコマンド」によって、彼女の「性感帯」は何倍にも増幅され、上記で検討したような「精神の動物化」が行われ、人間としての理性を失う。彼女の「気高い」美しさにあこがれていた回りのモブのプレイヤーによって、鬼畜の扱いを受ける。こうして人類は「動物」になる。それは一種の、

  • 平等化

なのだ。すべての人間が「動物化」する。それは、横塚晃一や横田弘の「青い芝の会」が「健常者」たちと戦った、脳性マヒ患者たちに「すべての人間がなる」社会だと言うこともできる。人間は滅びるのではなく、「動物」になる。それは、伊藤計劃の遺作『ハーモニー』において描かれた「意識のない人間」の意味でもある...。