関廣野「『シン・ゴジラ』の政治学 主権についての不安な意識」

関廣野といえば、『プラトンと資本主義』という本を読んで、鋭い分析をするなと思った記憶がある。たしか、3・11のとき、いろいろと発言をしていたのではなかっただろうか。
私がなぜこの論文について言及したいと思ったのか、ということについては、彼が初代のゴジラを映画館で子供の頃に見た、という発言が興味深かったからだ。

私も小学生の時に初代の『ゴジラ』を観たが、当時この映画をSF怪獣スペクタルとみなした日本人は一人もいなかったであろう。『ゴジラ』は戦争の生々しい記憶を呼び覚ましていた。

なぜ、こういった発言が重要なのか? それは今風の「SF」を語る「サブカル」周辺の人たちの、

  • 現実と遊離したもの

として「何か」を考えようとする「作法」が当時の人たちのリアリティにおいては不可能だった、ということへの不感症的な鈍さに、いらだちを覚えるからなのだ。
初代のゴジラは、どう考えても「戦争」であり、「空襲」であり、「原爆」でありの

  • 光景

をあのゴジラの東京への上陸が「イメージ」させることは自明であった。つまり、当時の人たちにとって、このゴジラの姿をそれとの関連を想起せずに見ることは、だれにも不可能だったのだ。つまり、そういった「緊張感」の中で、初代のゴジラは見られていた。
同じことは、今回のシン・ゴジラにも言える。つまり、3・11での福島第一原子力発電所の過酷事故に対する政府の対応が完全に、背景として再現されている。
このことは非常に重要である。初代ゴジラに日本国民が、アメリカの空襲や原爆をリアルタイムに想起したように、シン・ゴジラを観た日本国民は当然、福島第一の過酷事故をリアルタイムに想起しないわけがない。しかし、多くのネット上の反応はそういった並行性を意識したような読解は少なかった。そこには間違いなく、

  • 御用学者たちの意図的な論点そらし

があった。福島第一の事故を過少評価して、今後も原発を続けていきたいと考える日本の利害当事者と、彼らに御用学者的、またはエア雇用的に寄生して生きている連中が、なんとかしてシン・ゴジラをそういった論点から、そらそうとした。
私はこういった連中を「ゲンロン・プロレス・工作員」と呼んでいる。おそらく、なんらかの「御用学者」的な需要にもとづいて、彼らは、福島の原発事故を「小さく」見せようと必死になっている。
そういう意味で、日本のサブカルチャー批評は絶望的だと言っていい。あらゆるサブカル批評は、大手の広告代理店、つまり、電通の影響力の下で発言しているに過ぎず、必死で電通のご機嫌を伺っている。彼らは、そういう意味で、なんら新しいことを言えない。
しかし、である。
例えば、掲題の著者のように、自らの幼少の頃の「原初体験」において、初代のゴジラの意味をリアルタイムで体感している世代にしてみれば、そういった「鬼畜の反応」は、大本営的な戦前の悪しき官僚主義を代表した反応に過ぎない。こういったエリートたちの保身が国を滅ぼしたのであって、たんにそれは、日本を滅ぼす、醜い「悪」なのだ。

ゴジラの出現と共に世界は一連の未知の状況に変容し、その中で人間はマニュアルにはない例外的事態に対処する決断を迫られるという意味で『シン・ゴジラ』はすぐれて政治的な作品である。だからこの映画の三分の一以上は政府関係者たちが首相官邸などでゴジラ対策を協議する場面で占められている。議論の場面は現実的で、芝居がかった要素はない。これは非常事態に直面した日本政府の内情を隠しカメラで撮影した記録映画といえる。そして「日本は危機管理がとろい平和ボケ国家」といった陳腐な説が強調されている訳ではない。官僚たちがまずゴジラの定義や分類に手間どるのは官僚機構として当然なことである。彼らはゴジラに規定のマニュアルで対処しようと努める。だがゴジラは国民より前にエリートたちの日常を液状化させ、官僚機構のルーチンワークは空転し始める。

御用学者を含めて、3・11における日本政府の対応は見るも無惨であった。彼らの惨憺たる肢体を見せられ、私たち国民は、基本的に物理学者というのは嘘を言う人たちなんだな、と学習した。彼らは基本的に「エリート・パニック」を起こして、国民にとって「危険」な存在となる。まさに非常時においては、彼らの「人前からの隔離」こそが必要だったのだ。
官僚には、原発の過酷事故に対処できない。できないくせに、原発を動かし続けたとはどういうことか? まさに、かれらの

  • 無責任体制

がそこにはある。原発廃炉作業にかかる費用を、新電力の会社や国民に押し付けようと、経産省はさかんに大手新聞を使って、大本営発表をしているが、もしも原発をこの日本でこれからも残そうとするのなら、その前に、今まで、さんざん原発で儲けてきた連中が、全財産を抛って、国民に賠償をしなければならない。
彼らが全財産を、国家に提供し、生活保護の生活にまで落とされて、もう払うお金はありません、というところまで落ちたところで、始めて、国民はこれからも、原発を日本は続けるのかを問うことができる。今まで、原発を使って、さんざん

  • 私腹

を肥やしてきた連中は、資本主義のルールによって、生活保護まで落として、身包みを剥がさなければならない。それが、資本主義のルールなのであって、そうされたくなかったら、今すぐに原発を止めるから、国民の皆さん、どうか私を助けてください、と命ごいをする、ということになるであろう...。