横田弘・立岩真也・臼井正樹『われらは愛と正義を否定する』

私がそもそも違和感を覚えるのは、なぜ人々は相模原障害者殺傷事件を

  • 思想

の問題として扱わないのか、であった。そう考えると、日本における「優生学」を「まっとうな学問」として扱おうとする勢力と、例えばピーター・シンガーが考察したような、「一部の障害者の国家による殺害の正当化」をにおわせるような主張に「賛同」する勢力との、うさんくさい関係が見えてくる。
相模原障害者殺傷事件の特徴は、なんらかの「右翼勢力」が関係していることで、事実、小林よしのりはその事件の前にブログで、老人に対する「安楽死」について言及している。また、元フジテレビのアナウンサーの長谷川豊が不自然なまでに、自分が職を失ってまで、人工透析患者の自己責任を追求したことも、まったく同じ延長線上のことだということが分かる。
おそらく、こういった今年に入ってからの傾向は、官僚や電通のような広告代理店による「動員」がかかっていると考えて間違いないであろう。
相模原障害者殺傷事件については、雑誌の現代思想において特集があったわけだが、その雑誌の記事の中にも、相模原障害者殺傷事件とピーター・シンガーとの関連に言及したものもあったし、もっと一般的に「哲学」と相模原障害者殺傷事件との関係に言及したものもあった。
ようするに、SF作家の筒井康隆が主張した「芸術聖域論」の延長において、「哲学聖域論」が語られる。哲学は「悪」を語っていい。哲学は悪いことを考えていい。最初から、非倫理的であることが哲学の条件だ、ということになる。
そういう意味では、哲学は、国家が国民に対して行おうと画策する「悪」に対して、御用学者的な「御用意見」を用意する。
哲学は本質において「御用学者」であるとはそういうことで、「悪いことを考える」ことを哲学と呼ぶわけである。
日本の将来における少子高齢化は、間違いなく、高齢者に対する「福祉」の削減を、官僚が目標とし始めることを意味する。老人たちへの福祉を減らせば減らすほど、お金持ちたちの資産が税金で奪われることを防ぐことができる。こういった

  • 需要

に対して、「哲学者」たちが「悪」の論理を御用学者的に提供する。哲学者たちは、官僚と結託して、国民を国家の奴隷に変える。哲学者は官僚の「こう言ってほしい」という需要に、まさに「悪」によって答える。
そういう意味では、相模原障害者殺傷事件は起きるべくして起きた。これは「哲学者」の思想が起こした事件だったと言ってもいいだろう。
私たちが近年、「当事者主権」ということを言い始めたきっかけにおいて、上野千鶴子がどうのこうのという前に、掲題の本にあるような横塚晃一のや横田弘といったような、脳性マヒ患者たちの「青い芝の会」という

  • 抵抗運動

があったわけであり、こういった運動に対して非常に近いところで、彼らの動きを注視していたのが、立岩真也を始めとした「社会学者」たちであったわけで、こういった当事者運動に対して、彼らは大きく「コミットメント」していった。しかし、そのコミットメントは当然ではあるが、彼ら「当事者」たちとの軋轢を生む。まあ、そんなに簡単な話ではないわけである。掲題の本を読んでも、立岩真也は、ほとんど吊るし上げに近いような、問いつめられ方をしているわけであるが、その緊張感が社会学の関係者において、一定のレベルの質を保つ結果になったと思われるわけで、こういった文脈の中で、上野千鶴子なども語っているわけであろう。
本来、当事者運動は「ユートピア」運動であり、それは現実の「悲惨さ」と向き合う運動であり、絶望の運動であるわけだが、その怒りは当然、健常者たちが作っている今の社会制度そのものに向かわざるえをえない。そして、当然その怒りは、現実社会との大きな緊張を生みだす。確かに、脳性マヒ患者たちの「青い芝の会」は、どこか、同和団体被差別部落運動と似ている。
当事者たちの「絶望」は、直接には、

  • 国家政策

の問題であり、官僚による福祉政策の「限界」が彼らを追い詰めているわけで、つまりは、直接的には「社会学者」の政策提言になんらかの「当事者無視」の御用学者的な態度があることが原因とも言えるわけである。
しかし、社会学者側の立場から言えば、官僚による国家政策は一つの「パターナリズム」なのであって、総合的に政策の提言は行われる。どのような政策が選択されるのかは、さまざまな観点の「ものさし」によって決定されるのであって、それによって、多くの場合に、彼ら「当事者」たちにとって不満足な結果に至ることは大いに考えられるわけだが、御用学者はそれに対しても

  • まあ、そういうこともあるよな

程度の反応しか示せない。

横田:あのね、立岩さんがいくら易しい言葉で、伝えられることは伝えていっても、やっぱりわからないと。やっぱり障害者なんかいない方がいいよと、生物学的にも、経済的にも、社会的にもいない方がいいよと。第一、障害者の顔を見ただけで気持ちが悪いという人もいるわけですよ。現実に。五〇パーセント、六〇パーセントならばいいんですよ。これが恐らく、今、本心だけで語らせたら、七五パーセント以上はいる。こういった状況が続いている。そして、今後の状況によっては九五パーセント以上にあがっちゃう場合が充分あると思うんですよ。その九五パーセント以上の人に向かって立岩さんが言っても、結果は障害者は殺されていくことにあると僕は思うんですよね。九五パーセント以上になった場合は、立岩さんがいくらそれは間違っていると言っても、結局、障害者は殺されていくしかないような気がするんですよ。僕もあまり主義じゃないし、本当はこういうの嫌いなんですけれどね。
立岩:ストレートな答えになるかどうかわからないんですけど、僕はね、ちょっとずるい答えかもしれないが、こう思うんですね。つまりね、人間が一00人いて八五人が紅組で、一五人が白組だっていうようなもんじゃないと。というようなことたぶん 言いたいんだと思うんですね。人間って、さっきも横田さんが言ったけど、私ってそんなものわかるわけないってことでしょ。人間っていうのは、すくなくとも俺は紅組だとか白組だとか、そんなはっきりしたものんじゃないんだと思うんですよ。というか、両方が独立しているってものじゃないと思うんですよ。
例えば、子供が横田さんを見て、なにこの変な人みたいなのは多分あるし、理由はよくわからないですけど、それがなくなるっていうのは多分ないだろうし、それを絶滅させなきゃいけん あいというものでもないだろうと。多分ね。それは違和感みたいなものかもしれない。それと差別は微妙に連続しているのと非連続なところとあると思いますけど、どっかで何かのネガティブなものって人間の中にはあったりするかもしれない。
だけどね、人間っていうのは、人間の欲望ってもの自体が多様であって、そういう意味で、横田さんが気持ち悪いと思いながらでも、まあいいかなみたいなものだと思うんですよね。けっこう微妙なものだと思うんですよ。つまりあるものを否定する契機と同時に肯定する契機を持っている。僕はその間で集団A、集団Bみたいになっていないと思うし、一人の中でも、まあいいみたいなところと、嫌だというところが、けっこう危ういところで拮抗しているような感じがるすんです。
そういう時に、僕が言えるのは、両方の欲望みたいなものが人間の中にあるときにね、どちらがどうと言えないけれど、例えば赤い方なら赤い方っていくのはあることはあると。あることは事実だけど、あることが正しいことであるっていうような価値みたいなものが、我々の社会の中にあるとすると、そこの部分は外していこうと。それは正しいわけじゃなくて、お前がそう思うことはあるかもしれないけど、思うことが正しいわけじゃないんだよと、いろいろな形で言っていくことで何とかとどめるというか、そういうことがありうるんじゃないかなと思うんですね。
僕はそういう意味で人間の一人一人は多様であると。一人の中にあるいろんな要素っていうのはそんなに固定的ではなくて、やりようによってはどちらに転ぶかわからないと。そんなふうに考えているというか、考えることにしようとしているというか、まあ、どっちもなんですけれども。基本的にはそんなふうに思っていますね。

結局、社会学者というのは、社会政策を立案する側なわけで、官僚側であることは間違いない。しかし、そうだからといって当事者とデタッチメントであることは倫理的に許されない。だとするなら、当事者に寄り添って何かを思索するしかないわけで、その中で何かの答えを求めるしかない。
上記の引用において、立岩さんの言っていることは、人間集団には多様な人を含んでいるということではなくて、その一人一人がすでに「多様」なんだ、と。そして、そうしたことが分かったこととして、そうだとして、「正しい」ということは、その多様な個人の「外部」に考えることができるはずだ、というわけでしょう。というか、それは「最終的」なところでは、そういった「突き放した」倫理が問題になる場面があるはずなんだ、と。
さまざまなことを思う。そして、それら思うことは互いに矛盾しているかもしれない。つまり、

  • 思ったからといって、そのことが「正しい」とは限らない

という相対主義について注意している。つまり、謙虚であることは倫理的だ、と言っているわけであろう。
しかし、逆に考えてみると、こういった発言に、横田弘さんは満足できるのだろうか。やっぱり、立岩さんの発言は「官僚主義」の臭いがするわけで、横田弘さんは、なんとかして、自らの「運動」に明るい未来を展望したい。しかし、そうであるためには、あまりに立岩さんは官僚政治にコミットメントしすぎている。おそらく、立岩さんは横田さんやそういった当事者たちと離れて、官僚たちに囲まれて、政策提言してくれと言われたなら、また彼らの「求める」結論を用意するだろうし、彼らが見出す判断に「悟り」を開かれるわけであって、なにか、次のステップを見つけられたような、明るい気持ちにはならなかったであろう。社会学者はあまりにも「官僚的」なのだ...。

われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」

われらは愛と正義を否定する――脳性マヒ者 横田弘と「青い芝」