日本的「正義の戦争」論の危険性

さて。アメリカにトランプ政権が生まれるということは、戦後の冷戦体制が終わるということで、アメリカとロシアの「お金持ち」がグルになるということで、もう一度「明治」の「文明開化」に戻る、ということでもある。
そういった延長で、日本会議回りの連中が、

  • 日本はもう一度、アジアに戦争をしかけるべき

みたいなことを匂わし始めているわけである。

福沢はいろいろな形で利用されている。危険なのは、福沢の排外的で好戦的な主張をもちいた例である。例えば拓殖大学総長・渡辺利夫産経新聞に書いた「年頭にあたり 今こそ、福澤の『脱亜論』に学べ」がそれである。渡辺は中国・韓国への敵対的な態度を、福沢によって合理化しようとする。
渡辺は今日の「極東アジア情勢」は、日清・日露にいたる時期と「生き写し」だと記す。その文脈で福沢を賞賛し、「西洋人が之[=中国・朝鮮]に接するの風に従いて処分すべきのみ」という文言(10二三九)を引く。だが、今日と福沢の時代では状況はまったくことなる。列強に侵食されながらも東洋の大国であった当時の中国(そしてその冊封体制下にあった朝鮮)と、今日めだつ中国の海洋進出(付随して渡辺が言う韓国の中国への追随)を同一視する論理は、単純すぎる。多様な背景・事実・歴史を無視した事態の単純化は単純な主張をうみ、ひいては無謀な企画を合理化する。
おまけに渡辺の主張は、日本=正義という悪しきナショナリズムにつらぬかれている。だから「日本の領域を侵犯し、日本人の歴史認識に歯向う中国」などという言葉がつづられることになる。

福沢諭吉と帝国主義イデオロギー

福沢諭吉と帝国主義イデオロギー

つまり、「歴史の反復」である。基本的に日本の明治以降の「成金(なりきん)」は、朝鮮半島、台湾、中国への日本の「侵略」によって儲けた連中であって、一言で言えば、日本周辺のアジア諸国から、さまざまな「財産」をかっぱらって来て、「お金持ち」になった。彼らはそれを

  • もう一度やりたい

と言っているだけなのだ。彼らはさかんに「戦前に戻って、今度こそ中国を日本のものにしてやる」と言っている。「今度は失敗しない」と。じゃあ、どうやって今度は失敗しないことを担保するかといえば、「アメリカを味方につける」から、というわけであろうw ようするに、彼らにとってはそれが、唯一の

  • 成功体験

なので、それ以外の手段で、もう一度「成金」になれる方法が思いつかないわけだ。彼らにとってみれば、それは自らの「お家」の存亡に関係しているわけで、戦前の栄光よ、もう一度の人たちなわけで、必死さがあるわけであろう。
つまり、たとえどんな時代になろうとも、こういった人たちが消えることはない。人殺しは一部の人たちは儲かるわけで、それで食っていこうと決めている人たちが、そういった挑戦的なことを言って国民をたきつけることは、世の常だというわけである。
彼らの主張は、今度は「アメリカの支援」の下で、同じように朝鮮半島、台湾を「植民地」にして、韓国併合をして、中国で満州事変を起こして、満州国を作って、

  • 朝鮮半島・台湾・中国の「植民地」化の<完成>

という、戦前に達成できなかった「目標」を達成することであるわけだが、それを「アメリカを味方にして」行うことであるわけであるが、興味深いことに、彼らはその場合に、「ロシアの脅威」について、ほとんど考えていない、ということなのだ。
なぜなら、ロシアは今回のトランプ政権をみても分かるように、アメリカとロシアは政権の中枢において蜜月の関係となる。だから、日本はロシアと対決する動機をもたない。プーチンが日本に来て、北方領土問題が一切解決していないのにお金だけプーチンに渡して帰らせたのは、そういったトランプ側との意向をおもんばかっている様子がうかがえるわけである。
よく考えてみてほしい。例えば、安倍首相によって出された「70年談話」というものがあったが、あそこで書いてあった内容の特徴は、アメリカとの戦争は完全に「ごめんなさい」と謝っていながら、朝鮮・台湾・中国への「植民地侵略」は

  • 歴史が我が国に<強いた>運命

にすぎなく、我々はなにも悪くない、と言っている。むしろ、自分たちは、欧米が「やっていた」ことを真似たに過ぎない。だから、時代が変われば何度でも同じことを繰り返す、と言っているに過ぎない。
ようするに、安倍首相はなにも謝っていないのだ。彼が言っていることは、アメリカとはもう絶対に戦争しません、ということに過ぎないわけで、相手が違えば、いくらでも「正義の名の下」に、戦争をやるのは「当然」だと言っている。
ではなぜアメリカは、あれほど、世界中で「戦争」を行ってきておきながら、それなりに国内的な「倫理」を保ってこれたのかといえば、ようするに

  • 偉い人も戦場の最前線で戦死していた

からなわけですよね。だから、国民は着いて来ていた。しかし、近年、そのルールは破られ始めている。
おもしろいですよね。アメリカにおいては、お金持ちは徴兵されない。なんだろうね。そういえば、井上達夫は九条削除論の延長で徴兵制を言っているわけだが、それが唯一のアメリカの「倫理」だったはずなのに、そのアメリカでさえ、徴兵制は「義務」にできていない。だったら、お金持ちが戦争に無関心になるのは当然であろう。自分が死ぬことのない場所にいるのに、なんでそれに対して関心がもてるだろうか。だいたい、日本の兵隊を海外に出して、世界平和に貢献したいと言っている「エリート」は、そもそも、自分が戦場の最前線に立たないことを前提に言っている。なぜなら、自分は東大に入ったエリートだから、そんなブルーワーカーみたいなことはしないんだ、と。よく考えてみてください。私たち、そんな連中の言うことに従いたいですか?
もし戦争をやるなら、全員、戦場の最前線に行けよ。ずっとそこにいれよ。そうすることもなしで、「正義の戦争は必要」とか、なに言ってるんだ。戦争が必要なら、真っ先にお前が最前線に行って死ねよ。だって、必要なんだろ。そう思ってるんだろ。
その最も典型的な存在が、戦前の日本における陸軍士官学校であり海軍士官学校なわけでしょう。彼らは「エリート」なので、戦場の最前線に行かない。そりゃあ、戦争のリスクなんて考えなくなるよね。だって、自分は死なないのだから。
死なない場所にい続ける連中が、戦争を自らのお金儲けの道具に使い始めることは自明なわけでしょう。同じことは、福島第一事故にも言える。東電の偉い幹部は、現場で作業など死んでもやらない。じゃあ、現場の危険がないがしろにされるのは当然だよね。
例えば、馬鹿馬鹿しいのは、「批評」がどうことうとか言っている連中が、「批評」を

  • お金儲け

にしか関心がない。小林よしのりがお金儲けに使えると思ったら、小林を「利用」するが、別に、小林の過去の発言を批判するわけでもない。一切、それにはふれない。小林が応答したくないことについては、デタッチメントなわけで、それのどこか「批評」なんだろうねw たんなる提灯持ちが、いっちょまえに「批評」だってさw なんか偉そうなことを言って「世間はこれこれこう言っていてダメだ」とか言ってみても、そう言っているとお前が言っているのが、一体だれのことなのかを、明示的に書くこともできない。書いたら、いろいろなところで人間関係に角が立つから言わない。それって、典型的な

  • プロレス

だよね。全部、空中戦。だれも傷つけないし、だれも、そもそもなんのことを言っているのか分からない。それで「誤配」とか言っているんだから、心底、頭が悪いんだろうね。死ぬまで「誤配」って言ってればいいんじゃないの。それしか能がないんだからw
俺は悪くない。どっかのだれかが誤配したのが悪いんだ。便利だね、誤配ってw 絶対反省しないのは、もはや<誤配>教の信者だからなんだろうね。だって誤配と言っていれば、自分が悪くないことは明らかなのだから、反省しなくていいんだからね。
ようするに、自分は儲かりたいが、貧乏人に恨まれたくない。だから、明確な固有名詞をあげて行うような、批評活動はしたくない。彼らがしたいのは、

  • お金が儲かる批評活動

なわけで、ようするに、電通といった広告代理店がおもしろがって「工作員費用」を払ってくれるような、「プロレス」的な、空疎な発言であって、なんの紐付けも実証できないし、なんとでも後から「言い訳」ができるんだけど、聞く人によっては「よくぞ言ってくれた」と聞こえるような、彼らの差別感情を満足させてくれるような刺激的なことを言う。
早い話が、自分が儲かりさえすれば、日本がもう一度、アジアに侵略しようと「儲かればいい」。つまり、自分が戦場の最前線で死ぬことがなければ、中国と戦争になってもいい。すべては「儲かればいい」わけで、こういう連中が政権の周辺をとりまいている限り、ちょっとした「きっかけ」で戦前に戻ってしまう、ということなのだろう...。