子供の空間

なにをそんなトリビアルなことで悩んでいるのかと思われるかもしれないが、ようするに私たちは「大人」になってしまっていて、もう子供ではないわけで、そうすると子供のとき、自分がどうであったかなんていう瑣末なことは忘れてしまうわけである。
自分が子供のとき、どうであったか。それは、次の二つの空間によって分類できる。

  • 「子供(<--> 子供)」 ... 倫理空間
  • 「子供(<--> 大人)」 ... 倫理空間+道徳空間(教育的アプローチ)

他方、大人はどうかというと、以下である。

  • 「大人(<--> 大人)」 ... 倫理空間+道徳空間

こうやって見ると分かるように、大人の空間はとてもシンプルになっている。子供のように、対子供、対大人で分かれていない。
ここで「道徳空間」というのは、「法律」のことと思ってもらってもいい。つまり、社会の「ルール」である。
では、子供の対大人の空間のところであらわれている「教育的アプローチ」とはなにかというと、ようするに、子供の「ルール違反」は、結局は、保護者である「大人」が

  • 責任

を引き受けるという関係になっているということに関係している。つまり、もしもこれだけの関係だとすると、大人は子供の「暴走」のたびに、その不始末をつけさせれらる、ということになる。そこから、基本的に大人は子供に

  • 命令

している関係が成立している、ということが分かる。
そもそも子供は大人の「言うこと」に従っていないと

  • 死んで

しまう。それは、急に子供が走り出して、通りから突然あらわれた自動車にひかれて死んでしまう場合が分かりやすいように、基本的に子供は大人の「言うこと」に従おうとしている、ということなのだ。
子供が生きるということは、大人の言うことに従うということであり、その関係は変わらない。もしも子供が何かを選ぼうとしたとするなら、それは

  • 大人が選択肢を用意した場合

であることに注意がいる。
子供が生きるということは、大人が「用意」した幾つかの「ルール」に自分の今の行動が「適合している」か「適合していない」かを判断することと、基本的には同値だ、ということが分かるであろう。
しかし、上記の空間分類から分かるように、一つだけ「例外」がある。それは、子供同士の関係において、である。ここにおいては純粋に「倫理」のみが剥き出しになる。
子供は大人ではない。ということは、子供は子供との関係において、それが大人の場合であるような「命令」的な関係に推移しない。子供はむしろ、

  • 同じ子供同士

として、相手に「共感」する。同じ大人から「命令」される日々を生きるもの同士としての「連帯」を意識する。こういった方向に働く場合、その関係は友好的に推移すると言うことができるであろう。
では、「いじめ」の関係に推移する場合とは、どういう場合だろうか。そもそも、子供とは「防衛」的な存在である。上記の対大人の関係がそうであったように、子供はそもそも「壊れやすい」という認識がある。子供は大人のように、自らを自らで「生きさせる」ことができない。そこで、

  • 周りの子供を「犠牲」にして、自分が生き残ろうとする

わけである。これが「いじめ」である。「いじめ」は、基本的に「神への供物」と同型となっている。「いじめ」られっ子は、「いじめ」っ子によって、「神への供物」にされる。それが「いじめ」っ子が、「神の供物」にならないための、唯一の手段なのだ。
しかし、である。
多くの場合、「いじめ」っ子は、時間の推移と共に、今度は「いじめ」られっ子になる。なぜか。それは、もしも自分が「いじめ」で死んではならない

  • 価値

があるなら、逆にその子は、「神の供物」としての「価値」があることを意味するからだ。「いじめ」っ子が「いじめ」っ子になることによって、逆に、神の「食指」をそそる。
この「いじめの無限ループ」は一見すると、抜け出せない関係のように思われるかもしれない。
しかし、まれにこの無限ループから抜け出すケースが現れる。それが「倫理」的関係である。
ある子供がなにかのタイミングで、「死にそう」になったとする。そのとき、なぜか別の子供がその子供を助けたとする。こういった「自己犠牲」はなぜ起きるのか? なぜなら、子供はどちらにしろ「弱い」からなのだ。
子供は弱い。弱いから、一人では生きられない。つまり、子供はお互いで「助け」合わなければ生きていけない。だから、ときに子供はその行為が自分にとって損でしかない行為でも、行うことになる。なぜなら、そうやってみんなで助け合えなければ、いつ死んでもおかしくないということを、深く知っているからだ。
こういった行為は、助けられた子供を深く考えさせることになる。これを「贈与」の関係と言うことができる。子供がなぜ深く考えさせられるかというと、それが一種の「貸し」のような圧力となって意識されるからだ。助けられた後、その子供と会話をするときも、まるでそんなことがなかったような態度をとることはできない。なぜなら、もしもそんなことをしたら、周りから

  • 恩知らず

な冷たい奴だと思われるからで、結局なんらかの形で、この「貸し」を返す行為を行わない限り、周りの視線の「圧力」に苦しめられるからだ。
大事なポイントは何か。子供同士の「空間」においては、道徳空間が作用しない。つまり、世間の「法律」が彼らに作用しない。社会的なルールがないから、常に

  • 今ここ

で生み出していかなければならない。子供同士はお互いをどう扱えばいいのか、常に考えている。子供は深く考えるのである...。