佐藤岳詩『R・M・ヘアの道徳哲学』

この世界には、物理学の法則のようには、「善」や「悪」はないのだから、つまりは、道徳というのは存在しないんだ、というのが「無道徳主義者」であったわけだが、しかしよく考えてみると、こういった主張は奇妙である。
というのは、たとえそういった「無道徳主義者」も、自らが成長してくる過程において、

  • 周りが道徳的に振る舞ってくれたことによって、多くの「利益」を受けてきた

という事実は変わらないからだ。自らが「多くの利益を受けてきた」という「事実性」を無視して、この世界に道徳などないのだから自分は「無道徳主義者」だと言っても、いや、実際にあんたは生きてきた今に至るまでに、多くの「道徳的利益」を享受してきたことには変わらないんだから、それとの関連において考えないでおいて、なにを言っているんだ、ということになるであろう。
例えば、もしも、その子供と同じクラスの子供に、自分を「いじめ」そうな予感があった子供を毎月一人ずつ殺していた子供がいたとしよう。しかし、そういった子供は見つかり次第、少年院に送られることで、そのクラスに長期的には存在できなくなっている。ようするに、そのクラスには「ルールに従っている」子供しかずっと存在しえない。この「ルール」のことを上記では「道徳」と呼んでいるわけである。
ようするに私が言いたいのは、事実あなたは「その」道徳によって、今こうして立派な大人になれたじゃないか、と言いたいのだ。そういった「利益」があったのにも関わらず、道徳には意味がないと言うのは虫が良すぎるんじゃないのか、と。
ある小学校の女の子が余命一ヶ月を医者から宣告され、その絶望から、自分のクラスの全員が私と一緒に死んでほしいと願ったとしよう。しかしそんなことをその女の子が願ったからといって、学校がその願いを叶えたりしない。なぜかといえば、それを「道徳」が許さないからだ。しかし、その女の子の気持ちになってみれば、自分だけここで死ななければならないなんて「フェアじゃない」と思うことは当然じゃないのか、という考えだってありえるわけであろう。
そういう意味では、今、子供時代を「サバイブ」して生き残ってきた連中は、どこかしら「冷たい」わけである。彼らが生き残ってきたのは、彼らが周りから「優遇」されたから、といった側面がある。つまり、優遇してもらえなかった子供は

  • いじめ

で死んだのであって、そのことに世の理不尽を感じないわけではない、という考えも確かに自然だと言えないわけじゃない。
子供は自らが「道徳的」であったから「大人」になれたのであって、その逆ではない。道徳的ニヒリズムは一見すると合理的であるが、それはなぜお前が今生きているのかを説明しない。子供は自らをもって「複雑」さに耐えられないから、自らが属する社会が「単純化=道徳化」されていることを理解できない。単に、子供は道徳社会の「ニセモノ」性に

  • 適応

するのだ。
そういう意味では、「功利主義」というのはこの「無道徳主義」の別名だと考えることもできる。
初期の功利主義者が言ったことは、「善とは快である」というわけであるわけだが、基本的には経済学も(パレート最適などに現れているように)功利主義を踏襲していたわけであるが、普通にこれだけを見たら、「頭がおかしい」と言うしかないであろう。

ムーアは一九〇三年の『倫理学原理』において「善とは快である」という功利主義の前提に対し、我々は「快はよいか」と有意味に問うことができると指摘することで、善を快によって定義することはできないと述べた。

結局のところ、経済学とは「功利主義」なのだし(パレート最適がそうであるように)、その功利主義とは「善とは快である」と言っているわけだから(なぜなら一切の道徳理論を功利主義によって還元するのが功利主義者なのだから)、世界中の人間の頭に電極を挿して、快楽物質をダダ漏れさせておけば、

  • 最大多数の最大幸福

を実現できるのだから、実際にそう「提案」すればいいのにね。

さらに直感的に快が善であることをも否定する後門の狼の役を果たした決定的批判は、R・ノージックらによる経験機械の議論である(Nozick 1974)。従来、快とはそれを感じている心の状態であると考えられてきた。つまり快を効用と考える功利主義では、特定の心の状態にある人を増やすことが善であることになる。しかしある人が脳に挿された電極を通じて、その人の望むどんな経験でも与えてくれるような、経験機械につながれているとする。彼はその機械の力で快を感じている。その快と機械につながれずに得られた快の間には心の状態としての違いはない。すると快楽主義的功利主義は、この機械の使用を奨励するはずである。しかし現実には我々は普通、そうした機械につながれた一生を望まない。

ようするに、功利主義者は毎日、ドラック漬けにされて、ラリっていれば幸せなんだから、そうすればいいんじゃねーのと思うのだが、彼らは他人には「功利主義」を要求しておきながら、自分はそれを実践しないんだよね。
ようするに、功利主義者って「理論的に不誠実」なんだよね。いや、別にそれでもいいんだと思うんだけど、だったら、自分は功利主義者だなんて言わなければいいんじゃないだろうか。
しかし、哲学者とは功利主義者のことなんだから、自分が功利主義者じゃないなんて言ったら、自分は哲学者ではないと言っていることと同じと受けとられて、哲学者という「箔」がつかなくなって、権威がなくなる、と思っているのかもしれないけど、そういう「首尾一貫しない」態度が、たんに迷惑だっていうことに気付かない。
例えばピーター・シンガーは確かに、以下の引用のように、掲題の本で検討されているR・M・ヘアの「メタ倫理学」を自らの理論の中核として採用している。

本書では論じないが、シンガーも実際には自説を単に規範倫理学理論ではなく、規範倫理学緒理論の共通の基礎として考えていたように思われる。たとえば彼は次のように述べている。「これは倫理の普遍的様相から功利主義が引き出されうることを示しているのではない。......上のことが示しているのは、倫理の普遍的様相を、単純で前倫理的な意志決定に対して、いったん適用すれば、最初の段階としてただちに功利主義的な立場に到達するということである。功利主義の立場は最小限の立場。私益に基づく決定を普遍化することによって到達する最初の基礎、である。倫理的に考えるとすれば、我々はこの一歩を踏み出すことを拒否できない。もし功利主義を越えて進み、非功利主義的な道徳の規則や理想を受け入れるべきことを確信させようとする人がいるならば、それ以上のこの一歩を踏み出すための正当な理由を提出して貰わねばなるまい」(Singer 1998, 14: 16-17)

こうやって見ると、シンガーにとって功利主義は非常に「特殊」な道徳理論であって、あらゆる道徳を「包摂」する中核に位置「すべき」ものとして扱われていることを意味していることが分かる。
しかし、である。
そもそもR・M・ヘアの「メタ倫理学」は、選好功利主義と命名されていながら、その選好功利主義は「最大多数の最大幸福」を主張していない。これってなんなんだろう?

第一に、ヘアの選好功利主義は一般的な功利主義において最も中心的なテーゼ、「最大多数の最大幸福を促進せよ」という効用原理をその基礎に持たない。

ここで基礎付け主義の問題に限って考えるなら、功利主義はどのように定式化するにせよ、その道徳システムのために疑う余地のない基礎あるいは最高原理----つまり効用原理それ自体----を有しているのでなければならないという反論に答えなければならない。....そのような「効用原理」は功利主義的理論には、そして私自身のもののうちにも、必要がないということを理解することが重要である。効用原理は、実質的で模範的で、指令的な道徳原則であり、最高原理であるか道徳の基礎であり、それゆえにすべての道徳的問いはそれへの訴えによって決済されねばならないと主張するものと知られている。もし人がそのような原則をすべての下位原則の基礎として、そしてそれ自体は何らの根拠を求めないものとして受け入れるならば、その人は明らかにデアルト主義的基礎付け主義者となる危険にさらされている。この危険は私やカントのように、整合主義者となろうとすることによって回避されねばならない。(Hare 1996b, 124)

私はその危険を、効用原理を持たないことによって回避する。その代わりに、私は道徳的推論の方法を持ち、それは道徳概念の論理によって決定される。この方法は、実際、効用原理の適用によって伝統的功利主義者がたどり着こうとしたものと同じ道徳的結論に至る。しかしたどり着いた結論は、第一原理からの直線的な推論によってではなく、これまで概略を示してきた整合主義的な論証によるものである。我々は知りうる事実の光の下で受け入れることができる道徳原則と他の判断の整合敵な集合を見出さなければならない。合理敵思考者は独自の集合に同意するだろうというのが私の考えであった。それゆえ効用原理は不必要なものなのである。(ibid.)

このようにヘアは自説が結論としては伝統的功利主義と同じ形になることを認めるが、実質的で規範的な原理おしての効用原理の採用は拒絶している。この点で、選好功利主義功利主義の外形をとっているものの、実際には伝統的功利主義と大きな隔たりを有していると言える。効用原理とは一つの直感的原則にすぎず、そうした単一の道徳的直観に依拠する原則に基づいた基礎付け主義をヘアは拒否する。むしろ選好功利主義は、合理性を中心とした正当な論証の力を通じて、複数の直観が衝突した場合に、どちらに重要性を見いだすかを決定する位置にある。

うーん。ようするにどういうことなのだろう? ヘアの主張する選好功利主義は、そもそも、もともとの功利主義が主張していた「善」を「快楽=幸福」である、としていた主張を

  • あきらめ

て、撤退し、その主戦場を「選好」であり「欲望」でありに移った時点で、その理論的な基盤は、すでに以前のものを維持できないことは自明だった。
大事なポイントは、功利主義の内容がどのようなものであれ、こういった直感的かつ規範的道徳理論のある一つを

  • 特権的

な場所に置くことを正当化する理由はない。つまり、この理論を「自分がどう思っているか」に関係なく、メタ倫理学はその「中立」性を崩すわけにはいかないわけだ。ヘアのメタ倫理学は、前回注目した「自然主義」を否定する。つまり、道徳の「統一理論」といった「目標」を前提にしない。しかし、だからといって、それぞれの道徳が「合理的ではない」ということを意味するわけではない。
ヘアの選好功利主義は、それぞれの道徳の「内容」に関係しない。そういう意味で、ここから「直感的な道徳理論」が導かれることを保障しない。というか、もっと言えば、

  • 非道徳的理論

でさえ、その理論の範囲において「包摂」されてしまう。
ヘアの選好功利主義は、その主張の「合理性」にしか興味がないという意味において、道徳ではない。これはどちらかというと「論理学」とか、「数学」に近いとさえ言いたくなる。
しかし、だとするなら、なぜこのメタ倫理の構成上、このようになっているのか、ということと、しかしだとしても、私たちになんらかの「道徳」的な動機づけがされることが自然であると意識させることをこの理論が保障するような、そういった構成が示唆されなければ、そもそもなぜ「道徳」が問題とされるのかに答えることにはならないのではないのか、という疑問がぬぐえないわけであろう。

ウルフは「その人生が意味を欠いているがあめに生きる理由を何ら見出せないような人物のことを考えるならば、その人に向かって外へ出て効用を最大化すべきだ、熱帯雨林と鯨を守るべきだ....などということは馬鹿げている。....それら[説教]が合理的に考えれば有効であるべきだという考えは人間心理にまったくそぐわない。またそれについて何もわかっていない」(ibid., 307)と述べている。これは正当である。「自分の人生に意味を与えるものを何も持たないなら、その人たちは生きる理由、そして世界に関心を縺理由を一つも見いださないだろう。自分が生きるか死ぬかということも、そうした人にとっては興味のない問題となりうるのだ。彼女は自分自身に何の関心も持たない。彼女は朝ベッドから起きる何の理由も見つけられないかもしれない」(ibid., 303)。

こうした自らの生への意志、全一性の確保は選好功利主義それ自体による正当化の対象ではないが、必要な前提として欠くべからざる
ものである。それはロールズの言葉を借りれば、自尊(self respect)を守るということであり、コースガードの考えるアイデンティティの維持である。「それは、あなたが自分自身に価値を認める際の自己の記述、すなわち、自分の人生が生きるに値し、自分の行為が行うに値すると思う際の自己の記述」(Korsgaard 1996b, 101:118)である。我々は自己に誇りを持ち、自己を肯定し愛する限りで、世界に価値を見出すことができる。これは選好功利主義の成立の箇所で述べたように、価値とは我々が欲するものであることに起因する。誇りを持てないような自己のためには何も欲求しようとは思えない。そうすると世界の側にも何の価値も表われず、世界は色を失う。しかし逆に我々が自己を認めるとき、そして我々が受け入れている種々のアイデンティティを認めるとき、その自己の欲求するものは価値を持つ。このアイデンティティは個人的なものだけではなく、家族としての、日本人としての、など社会的なものを含む。「実践的アイデンティティは複雑なものであり、平均的な人間の場合は、さまざまな理解の寄せ集めになっているだろう。あなたは人間であり、女性あるいは男性であり、ある宗教の信者であり、何らかの職業集団の成員であり、誰かの恋人であり、友人であり、....等々である。そしてこのようなアイデンティティのすべてが、理由と義務を生み出している」(ibid., 101: 118-119)。ここから生まれる価値は単に自分の欲するものとしてではなく、相互主観的なものとして、我々の前に現れる。そして世界は鮮やかを取り戻す。それはすべて私が自分自身を肯定することができるかにかかっている。
この自らに尊厳を見出すことを不可能にする選択肢は、どれだけの善を世界にもたらすとしても決して受け入れることができない。それは選好功利主義においても同じであり、またすべての道徳にかかわる理論において同様である。そして私の尊厳を守らねばならないということは、私と向かい合う他者の尊厳をも同様に破壊しないことを要請する。私だけでなく、他者も自分の尊厳が破壊される際には、道徳の議論から降りるだろうからである。その尊守は普遍化可能性原理の要請するところであり、定言命法の求めるところでもある。相手の自尊を崩壊させるような決定は、道徳的な「議論」ではない。

上記の指摘は非常に重要である。つまり、道徳は極私的な場面においては、むしろその「否定」こそが自らの望むものであることがありうる。なぜなら、私たちは日々を希望をもったり、絶望にうちのめされたりして生きているのだから。
ある日、私は自らの未来のはかなさを前にして、絶望の中に閉じ込もる。それは、非倫理的なことなのだろうか? ヘアの選好功利主義はそういった人の「態度」でさえも、その自らの理論に内包する。生きることを絶望しているとき、私たちは苦しみの中にいるのであって、それを非難することの「傲慢さ」を私たちに、この理論は示唆している。
しかし、逆に考えるなら、人間をその「尊厳」の内に包摂しないような道徳理論はありえないことを示唆している、と理解することもできる。そういう意味では、功利主義は道徳理論の範疇ではない。いや、その範囲の中に収まっている限りにおいて、功利主義はその理論的主張を道徳としての場所を与えられている、とも言えるわけである...。

R・M・ヘアの道徳哲学

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