子供が感じる「罪」とは何なのか?

今週の videonews.com で木村草太さんがアニメ「聲の形」を「共同体の復活」の物語と言っていたわけであるが、それはアニメ版についてはあてはまると思うが、原作についてはどうなのか、ということについては以前、このブログでも書いたわけである。
というのは、この作品のポイントは

  • 全員が「不完全な存在」である

というところにあって、ようするに、「完全な救済」というのは、この作品全体を通して見ても起きていない、というところがポイントなんだ、と思うわけである。つまり、どこにも完全な人なんていない。みんな、なんらかのいい側面をもっている一方で、みんながなんらかの欠点をもっている。そういった不完全な人間という存在が、それでも生きていく、生き続けていく、というところにポイントがあるのであって、まあ、結局みんな、まだ高校生なわけであろう。まだ、大人でもない。
だから、原作の最後が象徴していたように、なんにも「これから」が決まっていないわけである。どんな未来もありうる。だれかとだれかが付き合い始める、といったことも起きても不思議じゃない。だって、まだ彼らは大人じゃないのだから。
この作品を決定的に他のアニメと違って描いているのは、主人公の少年時代の石田が、聴覚障害をもつ硝子への「いじめ」を描いているところにある。
しかし、このショッキングな場面に多くの人は非常にロマンティックな「幻想」を読み込む。例えばそれは、アニメ「君の名は。」における、瀧と三葉のようなヒーローとヒロインの関係のような。
もしも石田が主人公なら、硝子は「ヒロイン」となるわけだが、その石田が硝子を「いじめ」るというのは

  • 物騒

なわけだ。しかも、硝子は障害者である。まさに、ポリティカル・コレクトネスを逸脱している。
しかし、この場面については、もっと丁寧に考えなければならない側面が実は多く示唆されている。まず、石田は母子家庭である。一歩間違えば、簡単に不良に行きそうな傾向が、明らかに見られている。また、硝子は実は、前の学校でもうまくいかなくて、それで転校してきたということが、最初から示唆されている。つまり硝子自体が、そういった「失敗」をどこか、あらかじめ予見しているような態度が見られる。
硝子は前の学校のときから、自分が「障害者」であるから、母親が苦しんでいるし、クラスの仲間が苦しんでいるし、だから、自分が悪いと思っている。自分が「障害者」であることが悪いことだと思いこんでいる。彼女は、なんとか努力をして、自分が障害者でなくなればいいと思っているが、それができなくて苦しんでいる。つまり、彼女はずっと自分を責めているわけである。
しかし、そのことは逆に言えば、そういった「障害者」を彼女はどこか馬鹿にしているような印象がある。自分を嘲笑することは、そういった障害をもった全ての人を嘲笑しているような側面がある。
しかし、どうして彼女を責められるだろうか。なぜなら、まさにそう彼女に教育したのが彼女の母親なのだから。
ようするに、この作品はそうやって登場してくる子供たち全員が、なんらかの「いい」側面をもちながら、なんらかの「欠点」を必ずもっているような関係になっていて、だれも、この

  • 構造

に対して、本格的な改善運動ができないような性格分析がされている。つまり、だれも超越的な場所からなにかを言えるような存在にしていない。しかし、そのことが逆にこの作品をリアルにしている。
子供は「前進」するしかない。つまり、ちょっとずつ大人になっていくしかない。この作品の批判として、どうして小学校の頃の「いじめっ子」と高校になって、つきあえるのか、みたいなのがあったが、そういった意味では、この作品はそこは丁寧に描いている。石田はずっと、罪の意識をもっていて、硝子に対して一線を超えようとしない。彼が考えているのは、なにか昔の「罪ほろぼし」はできないか、という一点であって、それは恋愛ではない。
そういう意味では、この作品では多くの事件が起きるが、驚くべきほど、作品の登場人物は「成長」していない。つまり、そんなに簡単に成長なんかしないんだ、ということが描かれている。
しかし、逆に言うなら、この作品が終わった「最後」から、さまざまなことが起きても不思議じゃない、といった含意をもって終わっていると言うこともできる。
私はこの「聲の形」という作品は非常によくできていると思っているが、その大事なポイントは、石田と硝子の小学校時代というのは、もう何年も前の

  • 過去の記憶の想起

だというところにあって、この描写の「リアル」さにショックを受けて、まいってしまってはいけない、ということなのだ。
確かに、障害者の美少女が、「いじめ」られている場面は、絶対にこの世界で起きてはならないような

  • 神聖なものが汚されている

ような印象を受けるのかもしれない。しかし、大事なことは、これは「子供たち」の世界の昔の記憶のことであって、今、それが目の前で行われているわけではない、というところにある。もちろん、この「いじめ」の内容を考えるなら、当時、刑事事件になっているべきだったと考えてもいいような話なのであろう。もちろん、そのことを否定するわけではないが、石田は母子家庭の子供として、どこかで、

  • 不良

の道に入っていくことは、予想されていた側面があった。そして、その傾向が硝子との関係から表面化したと考えることもできる。
子供とはそもそも「完全ではない存在」という意味であって、つまりは、大人ではないという意味であって、そういう意味においては、子供にはあらゆる行動の「責任」がない。それは、少年院のあり方に、よく現れているわけで、極論をすれば、子供が人を殺しても、死刑にならない。
ここの理屈はなかなか難しい側面があって、いずれにしろ、子供に大人にとっては自明な、一般的な「責任」であり「罪」が問われるのは、子供が大人になってから、ということになっている。
確かに、「石田が悪い」と言うのは簡単である。でも、彼は結局は「子供」だったわけでしょう。子供はちょっとしたことで、不良になる。そして、そうなったからといって、その子供にあらゆる「自己責任」を負わせることは、合理的なのか。
例えば、アニメ「Vivid Strike!」のリンネ・ベルリネッタは学校で自分が「いじめ」を連日受けていたことに対して、ある日「しかえし」をしたことに、それがベルリネッタ家の人たちの評判を汚したことに、罪の意識を感じてしまう。
また、アニメ「Lostorage incited WIXOSS」の森川千夏(もりかわちなつ)は、幼ない子供の頃、自分が穂村すず子(ほむらすずこ)と友達になろうとして近づいた行動が、すず子を他の子供から引きはがして、自分だけが独占しようとした「邪な心」から行っていたことを告白する。
これらに共通するのは、ようするに

  • 子供の「罪の意識」

なわけである。しかし、よく考えてみると、これは奇妙なのだ。なぜなら、子供とは「大人ではない」という定義である。そういう意味では、子供が罪を犯すのは、むしろ「当然」なのだ。なぜなら、子供はまだ「大人ではない」のだから。
だとするなら、なぜ子供はそうであるのに、その「罪」で悩むのだろう。子供が間違えるのは当たり前で、実際だから、テストで百点をとらないわけで、しかし、だからといってだれも責めたりしない。むしろ、毎日百点をとるような子供は気持ち悪がられる。
なぜ子供は自らが犯した罪に悩むのか。
おそらくそこには、「<子供たちの世界>の関係性」があるのだろう。子供は周りの大人から、

を受ける。つまり、どうあるべきなのかを教えられる。そして、実際に子供はそのようにあろうと日々努力している。そして、その「実践」の場が、<子供たちの世界>である。ここでは、大人は関係ない。ただ、複数の子供がいるだけの世界である。しかし、それぞれの子供は大人との関係において、傷つき悩んで、必死に前を向いている。どうすべきなのか、どうあるべきなのかを、必死で考えているわけだ。子供たちにとって、子供たちの関係はその「実践の場」だということになる。うまく行く場合もあるが、うまく行かない場合もある。それを残酷と言うのは簡単だが、じゃあ、どうしろというのだろう?
子供は子供を「いじめ」る。では、いじめは「だめ」ということで、「いじめ」をしないということにしたとして、じゃあ、何をするのか? 子供が考えていることは、常に「実践」的な行動なのだから、それは一つの「答え」でなければならない。上記の石田もリンネも千夏も、悩んでいるのは、

  • 自分が行った行為

である。それが「罪」だと思っているから苦しんでいるわけで、そう思うことに自分が「大人でない」ことは関係ないわけだ...。