リベラリズムという言葉のうさんくささ

基本的に「無道徳主義者」と「自由主義者」は同じ人たちということになるのだが、そのことが何を意味しているのかと考えると、自由とは「大人」だということを、彼らは言いたい、ということが分かる。
私は「リベラリズム」という言葉を使わないようにしているが、この立場というのはこの前のE・M・ヘアの「メタ倫理学」と似ているというか、基本的に、功利主義が「善とは快である」という、最初の前提をあきらめた時点で、快ではなく、その前の段階の

  • 選好=欲望

について考える学問だと「すりかえた」時点で、基本的にジョン・ロールズの正義論や、ピーター・シンガー功利主義と平行して主張されてきたものであって、つまりはそれは、一種の「メタ倫理学」として構想された。
さまざまな「規範的倫理学」が乱立する現代において、それらが「各現場」において、お互いがなんらかの「正当性」を主張する状況において、どのようにしてそれらを

  • 調停

するのか、といった「現場主義」的な「ものさし」を提供するといったことに興味がしぼられていて、そもそも大きな規範的倫理学のグランドデザインを提出する、といった野望をどこかであきらめている特徴がある。
確かに、ロールズの正義論やシンガーの功利主義はまだ、自らの「規範的倫理学」の先進性を競っているような側面があるが、大きな流れとしては、そういった

  • 直観的

な主張の優越的な正当性を議論すればいいのかというのは、よく分からないところがあるわけで、つまりは彼らの言っていることの「過激さ」のわりには、あまり多くの人たちの積極的な賛同を受けるという事態を迎えていない、という側面がどうしても否めない。
そう考えると、E・M・ヘアの「メタ倫理学」というのはなかなか興味深い主張なわけで、つまりはそれぞれの規範的倫理学

  • コンテクスト

を基本的に尊重するという姿勢において一貫していると考えると、確かに規範的倫理の「直観性」の優越的な立ち位置を競うような、通常の

  • 直観哲学

の限界がなぜ、現代において重要になっているのかをよく表しているのかもしれない。
直観哲学は自らの議論の出自をハイデッガー存在論に見出すわけだが、このことは、ニーチェ実存主義と基本的に同型だと言っていい。彼らの立場は、ニーチェの言う「超人」思想をベースにしているわけで、そういう意味では、お金持ちがどんどんお金持ちになり、貧乏人がどんどん貧乏人になる「新自由主義」的な

  • ノーガードの殴り合い

を全肯定するような、弱肉強食の社会をまさに「荒野」の比喩によって肯定する、一種の「ロマン主義者」であった。そういう意味で彼らの言う「哲学」は、なんらかの

  • 美学

に関係して主張されていた。ナチス・ドイツユダヤ人をアウシュビッツ収容所で殺していたことでさえ、なんらかの「美学」に関係して考える彼らの倫理は、どこか優生学の色彩を帯びる。
このことは次のように考えてみるといいかもしれない。お金持ちは子供を東大に入れて、将来が安定した職に子供を就職させ、「お金持ち」階級の再生産を行う。しかし、これが成立するためには、お金持ちがどうやって貧乏人を

  • だまくらかして

彼らのなけなしのお金をまきあげるかに関係している。それは、どういったルートを通して実現しようがどうでもいい。とにかく、社会的に貧乏人からお金持ちにお金が「まきあげられる」<からくり>さえ存在すればいい。
例えば、こう考えてみよう。東大生は非東大生より「優生学的に優秀な遺伝子である」とした場合、東大生たちはこの日本がどういう<からくり>になっていれば、自分たちが東大に入学しただけで、それから何世代にも渡る将来の安定が得られるのか、と考えるわけである。どういった社会システムがそのことを実現するのか、と。
それは、次のような方程式によって実現される。

  • 東大に入った=優生学的に優秀だ
  • 優生学的に優秀な子供は、憲法的に「優遇」されるべきだ

この二つをさまざまな局面において、極大化=正則化することによって、

  • お金持ち(東大家系) <--> 貧乏人(非東大家系)

という、相関関係を、この日本において実現する。しかし、このルールの裏には言うまでもなく、次のような「常識」的な関係が隠されているわけであるが。

  • お金持ちが、お金さえ教育にかければ、どんな子供も東大に入学できる

しかし、彼ら「ブルジョア直観哲学者」は、この、あまりにも常識的な主張を重要視しない。その代わりに、「優生学」を極端に前景化する。

  • 東大生 = 優生学的に優秀 = 憲法的な「優遇」されなければならない「階級」

という形で、国民を優生学的に「分類」するところから、彼らの「ユートピア」は始まる。デカルト的「二元論」主義者はマルクスを唾棄すべきものと対決する。人間には、優生学的な自明な分類があり、頭の悪い連中が国家を衰退させ、頭の良い連中は常にそういった頭の悪い連中の邪魔をされているから、本来の実力が発揮できない、と。彼らにとって、どうやって

  • お金持ちがどんどんお金持ちになり、貧乏人がどんどん貧乏人になる

社会を実現するのかを真剣に考えている。彼らにとって、それこそ「優生学ユートピア」なのだ。貧乏人がどんどん貧乏になれば、彼らは子供を産めないし、その子供を東大に入れられない。対して、お金持ちはお金さえかければ、いくらでも東大に子供を入れられるのだから、優秀な遺伝子を国家は利用できるし、優秀な遺伝子を国家の「宝」として未来に残せる。
大事なポイントはなんだろう? お金持ち階級は、そもそも「お金があり余っている」から、さまざまな自分たちの階級の「磐石さ」を実現するための「方法」の研究費にお金をかけられる、というところにある。他方、貧乏人階級は、確かに人数はいるのだが、それぞれがなけなしのお金しかないし、日々の労働に忙しいので、お金持ち階級と戦うための戦術を研究するコストをかけられない、というところがある。
私たちが気をつけるべきポイントはなんだろう。それは、3・11の福島第一原発の過酷事故のときにさかんに議論された「エア御用」たちである。彼らは、一種の「寄生虫」なのであって、上記の「お金持ち階級」から、お金を恵んでもらうことによって、将来の安定を得ている。そういう意味で彼らは、貧乏人たちとの「連帯」に一切、興味を示さない。彼らの言うことは常に、「お金持ち階級の階級的安定に利する」ための主張であって、それを続けることによって、ステマ的な「報酬」をどこかから得て、糊口をしのぐ。
最初の話に戻るけれど、じゃあ「無道徳主義者」が「新自由主義」とか「自己責任」とか言うわけだけれど、ようするにそれって、

  • 俺、東大に受かるくらいに「頭が良い」から、競争に勝てる

と言っているに過ぎなくて、いや、あんた。今まで「子ども」だったわけで、その子どもだった頃、なんにも知らなかったじゃねーか。その時、別に自己責任で生きてなかったじゃないか。それが、自分が東大に受かることによって、だれよりも「有利」な場所にこれた「結果」となって今ごろ、

  • 自己責任

とか、なに言ってるんだ、ということなわけであろう。つまり、E・M・ヘアは生涯をかけて情緒主義と戦ってきて、そこから「メタ倫理学」という自らの立場を確立したわけだけど、しかし、その彼も晩年になって情緒主義には

  • 一定の役割

がある、とか言い始めちゃっているわけでしょう。つまり、子どもは「自己責任」で生きていないじゃないか、と。まさに子どもこそが、道徳という「単純化された倫理」を、まさに「そのまま」生きている。というのは、子どもにとって、この世界という「複雑」さを理解できないからでしょう。子どもは「馬鹿」ですよ。なにも知らないんだから。でも、だからって子どもをこの社会から排除できない。むしろ、道徳というのは、子どもを私たちの社会が「包摂」して、この社会システムを形成するために用意している媒体なわけですよね。そして、その中核的な役割の場所に、徳倫理学がある。

さて、第一の教育とは子どもたちに彼らが持つべき一見自明な原則のセットを教え込むことである。ここで道徳的判断は選好に支えられていることを思い返してもらいたい。つまり子どもらに「『Xはよい』と判断せよ」と命じることは「『X』を選好せよ」と命じることに等しい。注意すべきは「「『Xはよい』という判断は妥当である」と判断せよ」と命じているわけではないということである。妥当性の判断は批判レベルで行うべきことであり、この段階では求められていない(というよりは、妥当性を判断する能力が無いと前提されている)。XとYを選択可能な場面で、子どもたちはまさに直感的に(無批判に)Xを選択する指令を下せるようになることを求められているのである。
そうするとこのレベルでの教育はまさに彼らの選好や意志に直接にかかわっていることになる。ここで行われていることは、傾向性や道徳的態度の涵養である。持っている傾向性や判断のセットによって人の生き方は表される以上、こうした価値観の教え込みは一つの理想的な生き方を教え込むことである。あるいはヘアは「性格とは傾向性の組み合わせである」と述べているが、これはまさに徳倫理学が注目する「よい性格」を身につけさせることである。ヘアは次のように論じている。

道徳的思考の批判レベルは、単に直観レベルでの直観同士の衝突を解消するだけではなく、我々が自分たちの子どもと自分たち自身において涵養されるべき道徳原則と徳を選択するために用いられる。......これらの原則を吸収し、これらの徳を身につけたものは、正と不正、善と悪についての適当な直観を持つだろう。そしてまた誘惑に打ち克つというだけでなく、実践においてその原則に従い徳を示すだろう。もし批判的思考がよくなされたならば、それゆえにもし正しい徳と原則が選択されたならば、それらを備えた人はよい性格を持った人物、つまり道徳的によい人物になるだろう。(Hare 1994, 145)

我々にとってこのような教育は非常に重要なものである。そしてこの徳を身につけるということを重視する徳倫理学は道徳哲学において大きな意味を持つということをヘアは認めている。逆に批判的思考である選好功利主義はこのような役割を果たしえない。第一のタイプの教育の必要性と対応して、徳倫理学は道徳哲学において重要性を持つ。そしてまた行為ばかりを重視する近代道徳哲学はこの役割を果たしえない。

R・M・ヘアの道徳哲学

R・M・ヘアの道徳哲学

ようするに何が言いたかったかというと、なんというか、全部原因と結果が逆なんだよね。優生学、上等だよ。でも、それってたんに、あんたが「エリート・コース」をたどってきたという事実を言っているだけなんじゃないのか。そもそも、ニーチェの言う「超人」だとか、強者や弱者ってなんなんだよ、と。
ほんと、見たくないものを見ないで、実証研究を無視して、プロレス的に言いたいことを言うだけだったら、なんでも言えるよね。その時の権力者におもねって、石原慎太郎東京都知事をやっていれば、石原におもねって、右寄りのことを言って、ちやほやされようとしてきて、全部それって、あんたが見たい

  • 気分

じゃないか。

杉田 承認欲求や自分の存在のつらさみたいなものを何歳になっても抱えていく人が結構いるのではないか、という気が個人的にはします。誰もが悟れない、結局悟れない、というか。
最近、石原慎太郎の文芸誌での対談が話題になりました(石原・斎藤[2016])。石原氏はかつて「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」と発言したり、重度障害のある人たちの入所施設を視察したときには「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言していた。今回の対談でも彼は相模原事件の植松青年について「僕、ある意味でわかるんですよ」と言っている。しかし彼は今、三年前に患った脳梗塞の後遺症に悩まされたり、老いの恐怖におびえたりしているんですね。記憶中枢をやられて、文字を書くのがままならないらしい。
つまり彼が今まで「生きる意味はあるのか」と差別的に見ていた側の人間に、自分が回ってしまったときの、おびえや戸惑いを口にしている。彼みたいな人間がそういう恐怖にどうやって立ち向かっていけるのか。最後まで差別的で優生的な価値観を捨てきれないのか、そこから解き放たれうるのか。政治学者の中島岳志さんがそのことを新聞で取り上げていて、「自業自得だ」という言葉を投げかけたくなるけど、「それはやってはならない」と(中島[2016])。それは自己責任論の悪循環を加速させ、差別や暴言を後押ししてしまうから、と。ちなみに中島さんはそのときに立岩ワード(?)を使っています。「いま何としても『弱くある自由』を守らなければならない」と。
立岩 石原慎太郎については、それ読んでいないし読む気もないですが、単純に、なんだよ、都合いいよな、と思います。素朴に。若くて元気な頃はああいう感じで、弱くなったら「助けてよ」、みたいな。結局死ぬのは怖いとか、そういうのはわかります、けど。しかし許し難いものは年寄りになろうがなんだろうが許し難い。

いや、勝手にすればいいと思うよ。でもさ。ほんと、多くの人たちが石原慎太郎と戦ってきたんだよ。いろんな場面で、彼の差別と戦ったんだよ。まるで、そういったことがなかったかのように、上から目線で「リベラル」とか言うなよ。お前の「エア御用」的な振舞いで、実際に多くの人が迷惑を受けたんだよ。そうやって死ぬまで、風見鶏で意見を変え続けるんだろうけど、それがどれだけ社会悪をまきちらす行動なのかを自覚しろ、っていうことなんだろうね...。