なぜ子どもは親の命令に従うのか?

子どもは、この世界がどうなっているか知らない。それはそうである。教わっていないのだから。というか、教えようがないのだ。なぜなら、それを教えるというのが、義務教育そのものとされているのだから。ということは、義務教育の過程が全て負わって、中学を卒業するときになって

  • 始めて

その教えの全体として、なんらかの「全体」が見えてくる、ということになるわけだが、言うまでもなく、中学までの教育でこの世界がどうなっているかが分かるわけがない。中学までの教育とは、そういった世界がどうなっているのかを、自らで調べて、必要な範囲で「探求」するための「能力」を開発する期間だとも言える側面がある、ということであって、なかなか大変なのだ。
というかさ。大人の私たちだって、この世界はどうなっていますか、と問われたら困るんじゃないだろうか。なんとなく思っていることを言うくらいが関の山で、まあ、その程度の認識しか、大人ももっていない、ということなのだ。
そういった、この世界において、子どもが「馬鹿」であることは言わば、「当たり前」なのだ。そんなことに驚いている奴はどうかしている。子どもは「教えた」ことしかできない。いや、教えたことでさえ、試行錯誤をして、やって身につけるのであって、そんなに簡単じゃない。
しかし、よく考えてみると、子どもが「そんなこと」で。よく私たち大人はそういった子どもと「まとも」に

  • 共同生活

ができているもんだな、と思わないだろうか。なぜそれを可能にしているのだろう。
つまりはそれが「道徳」である。つまり、子どもの周りの大人は、常に子どもになんらかの「命令」を行っている。しかし、その命令の「規範倫理学」的な「根拠」はなんだろう? おそらく、こんなことを考えて教育をしている人はほとんどいないだろう。なんだか分かんないけど、それが「当然」だと思って、大人は「直観」的に子どもを「しつけ」る。
それは、早い話が「実践的」に、この程度のことも実現されないと、まともな教育なんて成立しないからなのだ。
例えば、子どもは学校でのテストの結果が悪かったら、親に報告したくないだろう。というのは、嫌な顔をされることは最初から分かっているから。でも、これを親が報告をされなかったら、または、

  • 嘘の報告

をされたら、まともな教育など成立するだろうか。何年も、通知表が嘘で書き換えられていたら、ある日、気付いたら大変な手遅れになっているかもしれない。親が「嘘をつくな」と子どもに教えるのは、そういった実際に「困る」場合があるからなのであって、その普遍的な「正義」の可否を考えてではないわけである。
大人にとって大事なポイントは「子どもをアンダー・コントロールする」ということであって、安倍首相が福島第一をアンダー・コントロールすると言ったこととそう変わらない。子どもをなんとかして、大人は「コントロール」したいのであって、それは、子どもが「この世界をすべて知っていない」にもかかわらず、なんらかのコントロール配下に置くことによって、

  • それなりの実利にかなった状況に置き続ける

という、目標がある、ということになるわけである。
子どもは「馬鹿」であるわけだが、大人にとってそれは関係ない。大人にとって大事なことは、子どもを自らの「コントロール」の下に置き続けることによって、なんとか、「ある範囲の状態」にしておくことだということになる。それは最終的には「大人」にする、ということであるし、「サバイバル」させるということであるし、まあ、立派な大人にする、ということでもいい。
大事なポイントは、その「立派な大人」なるものは、一瞬では達成されないが、親の視点から見れば、ある「一定の範囲」の中にコントロールしておければ、年齢を重ねる間に、そういった「立派な大人」に勝手になってくれる、という考えがあるわけである。
そういった観点から見たとき、大人にとっては、「道徳」とはそういった子どもを「立派な大人」に成長させるための、さまざまな「ツール」の中の一つだ、という考えもできるわけである。
ある一定の時期の子どもが、なんらかの「道徳」という「ルール」に従ってくれる、ということによって、さまざまな親にとっての「コントロール」の実現を達成することを助けるかもしれない。大事なポイントは、その「道徳」という「ルール」になにか根拠のようなものがあって、子どもが「納得」しているかどうかは、この場合、大きな問題ではない、ということなのだ。なんだか分からないけど、子どもは親の命令に従う。なぜなら、従わなければ死ぬからだ。なぜなら、子どもはこの世界を知らないから。子どもは親の命令に従ったから今、生きているのであって、その逆ではない。しかし、なぜ子どもが親の命令に従わなければならなかったのかと聞かれても、別に、そのための普遍的な「理由」が用意されているわけではない。
子どもは「無心」で親の言うことに従おうとする。必死で従う。いや。それは逆なのかもしれない。親が必死なのだ。必死で子どもを従わせようとする。なぜなら、親の言うことに従わなかった子どもは死んだからだ。それは、親が「急に道路に飛び出してはいけない」という「しつけ」に従えなかったために、道路に走って飛び出して、車にひかれて子どもが死ぬ場合を考えてみてもいい。
親は「必死」なのだ。なんとかして、子どもに「それ」を教えなければならない。それができなければ、子どもが死んでしまう。つまり、「手段」を選んでいられないのだ。頭の悪い子どもに、一体、どうやれば教えられるのか。大事なポイントは

  • どう教えるのが「正しい」か?

ではなく、

  • なんでもいいから、子どもが「急に道路に飛び出さなく<させれ>ばいい」

というところにあるのであって、なんだか分からないけど、それを「可能」にした子どもが生き残るのだ...。