ルール?

そもそも、ルールというのはよく分からない側面をもっている。例えば、プロスポーツであるが、以下を読むと、この著者はプロ野球はプロサッカーに比べて、ルール化されていないルールに選手が従っていて「理不尽だ」と言っている。

6点もリードしていたら、バント安打など狙わない、という"不文律"のルールがあるという。他にも「無安打無得点試合や完全試合を防ぐためのバントをしてはいけない」や「大量リードしているチームは盗塁をしない」などなど、暗黙のルールは多数、存在する。何となく「紳士協定」のようなもので、弱者にむち打つようなことはしない、という考えが根底にあるようだ。
同じことをサッカーで考えてみた。例えば10-0でリードしているチームは手を抜くだろうか。相手に1点ぐらい、入れさせようと考えるだろうか。わざとゴールを外すだろうか。答えはいずれもノー。1点でも多くゴールを決めようとするだろう。
野球とサッカーでは、そもそもルールの違いがある。野球は得失点差は関係ないが、サッカーでは重大な問題になる。単純な比較はできない。
ただ、この暗黙のルールはいったい何なのだろうか。いくら大量リードしていても、個人にとっては打撃成績は死活問題。1打席でもムダにすることはできないはずだ。メジャーでは、大量リードのチームの選手が盗塁しても公式記録上は盗塁が記録されない。この場合は、盗塁ではなく野手選択、いわゆるフィルダースチョイス(FC)が記録される。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170103-00000526-sanspo-socc

しかし、この著者の主張はあまりに「理不尽」なんじゃないかw なぜなら、私たちはサッカーの試合で何度も、相手の選手が倒れて痛がっていると、ボールを外に出して、しかも、試合を再開すると「相手にボールを返す」場面を見ているわけであろう。
というか、これに似たことは、さまざまなスポーツにあるのではないか。
むしろ、上記の引用の違和感は「個人成績」なるものの「価値」の方にあるわけであろう。試合は試合に勝つことが「目的」であって、そもそも、個人成績などという「競技」はないはずなのだ。そんなものがあると言っているのは、外野の連中だけで、選手たちには関係ないわけであろう(選手たちが「評価」されるのは、給料の交渉のときであって、それ以外を何かと言うことの「理不尽」さの方にこそ、合理性がある)。
例えば、アメリカ大統領選挙で、ロシアの諜報機関がトランプ勝利のためのなんらかの選挙不正を行ったのではないか、といったことが噂されていて、事実、オバマ大統領はそのことに関連して、ロシアの大使館を撤退させるなどの「制裁」を行っているわけであるが、この事実が不思議なのは、だったらなぜ選挙の「不正」を正面から問題にしないのか、にあるわけであろう。
なぜオバマが、今回のアメリカ大統領選挙がロシアによる不正なハッキングによる介入によって、選挙の結果が間違ったものになったと騒がないのかといえば、早い話がそうやって、「不正」を認定したとして、その後どうすればいいのかが決められていないからなのだ。ということは、これは

  • ゲームじゃない

ことを彼らは十分に知っているわけである。あそこまでCIAがハッキングがあったんだと言っているということは、おそらく選挙結果を左右したレベルにおいてまで、ロシアが選挙を操作した事実はあったのであろう。しかし、じゃあ逆に、民主党側は「正々堂々」と戦ったのだろうか? おそらく、調べれば調べるほど

  • 両陣営

の「不正」がどんどん出てくるはずなのだ。つまり、調べたら調べた分だけ、お互いの「悪」が暴かれる。でも、そんなことになったからって、じゃあ、どっちの勝利だとすればいいのだろう。もう一回、選挙をやるにも、じゃあ、二回目の選挙ではそういった「不正」はなくなる保障など、どこにあるのかと。
こうやって考えてみると、ゲームの「勝者」や「敗者」というのは、一体なんのことなのだろうと思わないだろうか。
そもそも「ゲーム」とは、「ルール違反」がつきものだ。その場合、ルールに違反したからといって、その人を裁くかどうかは、よく分からない秩序になっている。実際、日本の警察は発見した全ての「法律違反」を立件しているわけではない。なぜ全てを立件しないのかと思うかもしれないけれど、逆に全てを立件しなければならないなどという「ルール」はどこにもないのだ。
上記の引用における「紳士協定」も似たような場所に置かれている。サッカーは怪我の多いスポーツで、実力差の大きいチームの試合では、前半で大量得点をとったら、後半は強い方が自陣でボールを回し続けて試合がそのまま終わるケースも少なくない。へたに無理をして、怪我人を出すよりいい、という考えもあるわけで、逆に言えば、なぜそれでよくないのかと考える理由もない。
同じようなことは、今回のアメリカ大統領選挙にも言えるのだろう。ロシア政府の息のかかったロシアの「ネット工作員」集団が、アメリカの電子投票システムになんらかの「ネット工作」を行っていたことが間違いないことは、日本の選挙で自民党のネット工作員が関係していることと、まったく同じ「からくり」なわけで、しかし、そんなことは、電子投票が行われる、はるか以前から、なんらかの「工作」がアメリカでも日本でも行われてきた。
問題はそういった「小さな」ノイズが「たくさん」あったからといって、この選挙自体を「無効」にできるのか、再選挙にできるのかに関係している。もしも「ばれなければいい」というのが、不正操作の問題なら、

  • なぜ民主党共和党とロシアの連合並みに、「ネット工作」ができなかったのか

という問題になる。というか、そんなレベルなのか、という疑問がわきあがる。ヒラリーのリベラル思想は、アメリカ全土のキリスト教保守層の考えるグラスルーツの保守的な考えと大きく違っていた、ということが言われている。だとするなら、なぜヒラリーはそのような層に対しての、「マイルド」な政策セットを用意できなかったのだろう。それは彼女なりの「true/false」のマインドセットが、まさに「大学的なインテリ層」の「常識」において語っていたということであって、本当の意味での全国的な合意形成とかけ離れた「インテリ内」の

  • ローカル

なゲームをやっていただけなのではないか、という疑いをもたせるわけであろう。
ゲームのルールはそもそも「勝者」が決める。だとするなら、ルールの抜け穴は常に「勝者」がより「うまく」使うことによって勝利するのだから、いつまでたっても直されない、ということになる。だとするなら、そもそも、ここで言う「ルール」とはなんなのだろう? 私たちはきっとルールというのは「フェア」にできていて、そうでなければ、漸進的に少しずつでも「良くなっている」と思っている。まさに、

  • 成長

である。しかし、上記の考察から言うと、なぜルールが良くなるのかの理由が分からない。常に勝者がルールを改正するなら、ルールは決して「良くならない」わけである。ルールのだめな所であればあるほど、それを利用したから勝者は勝者になったのだから、そのルールを改善しようというモチベーションはなくなるだろう。つまり、常にルールは「堕落」する方向に変わっていく(それは、パナマ文書の公開によって、あれだけの不正義が白日の下になっても、いっかな改善の兆しが見えないことからも分かるであろう)。
ルールは常に「改悪」される。だとするなら、なぜ「紳士協定」がなくならないのかも理解できるであろう。紳士協定があるということは、ルールの「改悪」がなんとか、みんなの力によって防がれていることを意味している。なぜなら紳士協定は、すべての参加者が「自主的」に守らなければ、実現していないのだから。
同じことは、憲法9条についても言えるだろう。9条の改正はそれ自体が問題なのではなく、あらゆる「改正」は、常になんらかの、

  • 権力者側の「利己的」な改悪

によって進められる、というところにある。恐しいのはこういった「悪魔」である...。