人文科学という「それ以前」の形而上学

デカルト以降の人文科学には、ある一つの特徴がある。それは、人間に「前の何か」を想定する、というところにある。
そのことは、デカルトを決定的に特徴付ける「要素還元主義」に関係して進められてきた、と言えるであろう。デカルトは、「延長」と「分割」を、あらゆる自らの理論の中核に置いた。つまり、

  • 二元論

である。デカルトは、あらゆる「存在」は、二つに分けられる、と主張した。つまり、その「二つ」は「異なる」何かを指示するものとして「意味」がある、と考えた。このことから、彼の哲学は

  • 価値

の哲学だと考えることもできる。あらゆるものは「二つ」に分けられるのだから、その「どちらか」が価値がある(他方より価値がある)といった表現が意味をもつ。
しかし、である。
こういったデカルトの「自明」性はどこまで「自明」なのだろうか。というのは、よく考えてみてほしい。デカルト以前においては、こういった態度は少しも自明でなかったどころか、だれもデカルト的ではなかったのだ。これはどういうことだろう?
例えば、エピクロスは「善とは快である」と言ったわけだが、その意味は、

  • 快=現実の「わずらわしさ」から解放されていること

という意味であって、現代の意味での「快楽」ではないだけでなく、現代的な意味での「肉体的快楽」はむしろ「苦痛」なのだ、と定義されている。
しかし、こういった態度は、デカルト主義においては維持できない。
なぜか?
なぜなら、デカルト主義は「あらゆる」存在は二つに分割できる、と考えるからだ。例えば、存在論を考えてみよう。ある人がある「欲求」を充足した状態に「なった」状態は、一つの「存在」である。つまり、その「存在」が「現れる以前」の状態が存在したのだ。その「存在」は、突然現れたのではない。それは、「現れる以前」の状態において、

  • 隠れて

いた。つまり、その「現れる以前」の状態のときにすでに、その「印(しるし)」が示されていた。それが「選好=欲望」である。
そもそも「選好=欲望」は存在したのだろうか? 「選好=欲望」が存在したことが示されるのは、実際にその欲望が充足されたときである。つまり、充足されたから「存在した」という命題が真理となる。つまり、充足されなかったら、その「選好=欲望」が本当に存在したのかどうかは、誰も分からない。
このことは、「自殺」に似ている。自殺をする人は、その自殺が「成功」して実際に死んだから「自殺した」という命題が意味をなすわけだが、その自殺未遂が「失敗」したとき、その人が本当に「自殺」をしたのかどうかはよく分からないのである。
あらゆる「選好=欲望」は、言わば「後から」発見される。というか、後から

  • 物語

にされる。つまり、これこそ「事後の思想」である。フロイト精神分析も患者が今、「病気」だから、その「原因」が

  • 発見

される。つまり、それが「物語」なのである。
なぜ、こういった「二元論」はうさんくさいのか。それは直観で考えても分かるわけである。ある「事件」が起きたと言われるその瞬間と、その瞬間の直前とで、何かが変わっただろうか。おそらく変わっていない。というか、ずっと変わっていた。

  • 一定の速度で変化していた

わけであって、急に何かが「起きた」わけではない。
おそらく、自然界の多くの現象は、こういった、統計力学における「状態遷移」のメカニズムによって起きていると考えられる。だとするなら、そういった「変化」に対して、「現れる以前」の「選好=欲望」の「状態」を仮定することは、欺瞞的なのではないか。
近代の「人文科学」の一切は、この「選好=欲望」の

によってできている。大事なポイントは、「選好=欲望」は病気になりその原因を探さ「なければならない」状態になって、始めて見出される、というところにあって、それ「以前」の何かという「仮定」は検証しようにもできない、というわけである。
例えば私たちは「合理性」の哲学を考える。そこにおいては、あらゆる「選好=欲望」は、その

  • 最大化

という「魔法」によって「コントロール」されている。つまり、功利主義である。しかし、そもそもそんなものは存在するのだろうか? そのことは私たちの日常を考えてみてもいい。ある日、あるちょっとした「変化」によって私たちは

  • それまで考えていた未来の「希望」の一切に幻滅する

わけである。それは「いじめ」と呼ばれていて、一切の生きる「パワー」が体から湧いてこなくなる。私たちは、ちょっとした自らの「尊厳」を傷つけられるだけで、なにもかもに「やる気」をなくしてしまう。はて。「最大化」とはなんだったのか...。