杉本俊介「'Why Be Moral?'問題の再検討」

(掲題の論文は、京都大学の博士論文?ということのようで、よく分からないけれど下のサイトからpdfで全文が読めた。今はこういった学位論文は、公開するようになっている、ということなのだろうか。いずれにしろ、私の最近の関心とも重なっていて、しかも、ほとんど網羅的にこの辺りの議論がまとまっていて、大変に勉強になった。)
デカルト以降の近代哲学は、人間には欲望があって、それが人間の行動を説明できるという形で、一種の「事前の形而上学」をつくって、基本的に現代の人文科学はこれに準拠している。
たとえばベンサム功利主義では、じゃあ、この欲望を足し合わせて「最大」にすれば、最高にハッピーだよね、となるし、ルソーの社会契約論も、じゃあこの欲望を重ね合わせれば、「みんなのやりたいこと」になるよね、というわけである。
しかし、こういった考えは、ある問題を考えるとき、途端に頓挫する。つまり、

  • 道徳

である。なぜ人類の歴史において、「道徳」は存在したのか。というか、人間はなぜ道徳に従ってきたのか。いや、多くの場合、道徳的に振る舞う「べき」であると言われるのか。
もしも人間が「欲望」でできているなら、人間が「道徳的」に振る舞う理由も、結局は

  • 自分の欲望のため
  • 自己利益のため
  • 自分のためになるから

といった説明をしなければならなくなる。つまり、そうでなければ「合理的」ではない、となるわけだが、この問題は「善=快」と同型の話で、普通に直感的に考えても変でしょう。
だって、道徳とわざわざ断るという理由は、自分の欲望や自己利益に反して行動しよう、としている、というふうに「文章の形式上」は少なくともなっているわけで、それをわざわざ「いや、そうは言っても結局は、回り回って、自分の欲望や自己利益になっているんだ」と言うのは、一種のトートロジーですよね(フロイト精神分析がこんな感じですよね。超自我があって、とか)。
なんでこんな変なことになっているのかといえば、そもそもの前提がおかしい。デカルト主義の人間欲望論や自己利益追及主義という「イデオロギー」を採用しているから(いわゆる哲学本質主義)、こんな超越論的な説明をしなければならなくなっているわけで、まずその「前提」を疑ったら、ということなんだと思うけど。

ネーゲルによれば、人は、共感や自愛の感情を媒介にせず、他者の利益を促進する直接的な理由をもつという。

利他主義に関して擁護されるべき一般的テーゼは、人は他者の利益を促進する直接的な(direct)理由をもつということである。直接的な理由とは、その人自身の利益や、その人があらかじめもつ共感や慈愛の感情といった媒介となる要素に依存しない理由のことである。(15)

人が他者の利益を促進しようと利他的に振る舞うとき、その人を動機づけるのは共感や慈愛の感情でなく、直接的な理由、「それが他者の利益だから」という理由だという。
たしかに、他の人々のために何かをしたいという欲求、共感や慈愛の感情が行為を動機づけているように思える。しかし、ネーゲルによれば、こうした欲求や感情は行為を動機づける(motivating)ものでなく、直接的な理由によって動機づけられた(motivated)ものかもしれない。
ここでの「直接的な理由」、は、共感や慈愛の感情、あるいは自己利益や欲求をもっていようとなかろうと、どの行為者にもあてはまる「客観的理由」(objective reasons)だという。ネーゲルは後に「行為者中立的な理由」と呼び直しているので、以下でも「行為者中立的な理由」と呼ぶことにする。

ようするにどういうことだろう? デカルト主義的欲望還元論や自己利益還元論を「否定」しなければ、上記の引用のことは言えない。そうではなく、その「外部」に人間の、「行動」が

  • ある

ということを端的に言っているわけである(少なくともその中の幾つかについては)。
それをカントは「実践理性」と呼んだわけだが。

実践理性とは「反省を通して、何をなすべきかという問題に対する解決を与える人間の能力」だと言われる(Wallance[2014])が、ここでの問題のなかには「人はいかに生きるべきか」、「なぜ道徳的であるべきか」という特定の時点を超えた人生全体の問題も含まれている(この点はウィリアムズが強調している(Williams[1985]5: 邦訳7-8)。
また、メッツが言うように、倫理学は伝統的に理性が能動的であり、情念が受動的であるという図式がとられてきたため、理性の行使では、人生の意味が受動的に与えられるという側面を説明できないと考えるのは当然である。しかし、実践理性の行使に反省という作業が含まれるかぎり、反省される対象は受動的に与えられている。実践理性は受動的側面を含んでいるのである。

うーん。反省という「作業」は一つの時間を伴う人間の「行為」なわけで、だとするなら、その「行為」が外部からの「作用」に媒介されていると考えることは普通なんだよな。
そこで、ここでは人間を発生段階から、どのように分類できるのかを考えてみたい。

  • 第一段階:ミラーニューロン段階 ... 産まれた子どもは、目の前で繰り広げられるさまざまな状態を自ら「真似」しようとする。つまり、自らが、まるで「鏡」になったかのように振る舞う。
  • 第二段階:親による教育=命令段階 ... 親は子どもが死なないように、さまざまな「命令」を行うわけだが、それらは一種の「道徳」として語られる。子どもはこの世界の複雑さを理解できない。よって大人は子どもにそれを「単純化」して、その「モデル」を使って子どもを操作する。よって道徳は常になんらかの「単純化」を経て世界に現れる。
  • 第三段階:二人称段階 ... ある状況を想像してみてください。私は「あなた」と例えば会話をしているとする。しかしその場合、私が何かをする、とはどういうことだろうか? 素直に考えるならそれは、私は「あなたの役に立とうとする」ということなのではないか。なぜなら、そうでなければ、なぜ私は「あなた」と会話をしているの? 私はなんとかして「あなた」がそうあってほしいと思っていることをやろうとしているのではないか?

この「二人称段階」こそが、一般的に私たちが「道徳」と呼んでいるものの正体なのであろう。

ダーウォルは、二人称的スタンドポイントとは、「あなたと私がお互いの行為や意志に関しての要求を行ない、それを認めるときに我々のとるパースペクティブ」(Darwall[2006]3)だと言う。
この二人称的スタンドポイントは、もともとP.F.ストローソン(Strawson)の論文「自由と怒り」(1962)などからダーウォルが得たアイデアである。ストローソンのこの論文は自由意志の論争、とりわけ決定論に対する楽観主義と悲観主義の対立を調停することを目的にして書かれたが、そこでは二人称的な「反応的態度」(reactive attitude)が注目されえている。

他人の行為......が向けた善意(good will)、愛情、尊敬という態度を映し出しているのか、それとも軽蔑、無関心、悪意(bad will)という態度を映し出しているのか、これが現実の私たちにとって非常に気になるところであり、重大な問題なのである。例えば、誰かが私を手助けしようとして私の手を偶然に踏んでしまったとする。その場合でも、私が軽蔑し無視していた......場合でも、痛みのつらさは変わらないということがある。しかし、後者の場合には、前者の場合には感じないような種類の強さの怒りをたいてい感じる。(Strawson[1962]5:邦訳 39)

反応的態度は道徳に限ったものでなく、怒り(resentment)など、私に向けてあなたが抱く思いのあり方(善意や悪意など)に対する私の反応(個人的な反応的態度)もある。それに対して、憤り(indignation)や責め(blame)など他人の立場を考慮した(vicarious)態度が、道徳的な反応的態度である。
たとえば、私があなたの手を踏んずけてしまって、あなたは足をどけるように私に要求を差し向ける(address)としよう。引用でストローソンが述べていることは、実質的実在論者によれば、痛みのつらさは内在的に悪いので、この理由から人々はそれを取り除くべきであると理解されるが、この理由は不適切な種類の理由だということである。これをダーウォルは「ストローソンの観点」(Strawson's Point)と呼ぶ。
ダーウォルによれば、あなたが私に差し出す適切な種類の理由は、私はあなたの手を踏んでしまって痛みを与えているという「私とあなたの関係」に関わっているはずだという。これを「二人称的理由」(a second-personal reason)と呼ぶ。あなたが私に要求を差し向けるとき、あなたはその要求を行なう権限(authority)をもっており、私にはその要求に応答する責任(accountability)があることを前提にする(presupposes)。
そして、ダーウォルは、この二人称的理由を差し向けることは差し向ける者と差し向けられる相手が意志の自律をもつことを常に前提にすると論じる。ダーウォルはこの自律を「二人称的能力」(second-personal competence)と呼んでいる。

まあ、基本的にはこの形式なんだと思うんですよね。
人間を「言語」というものを媒介して見たとき、その構造の基本は、こういった二人称なんだと思うわけである。それは相手に迷惑にならないようにって、手や足がぶつからないように間隔を空けて、並び立つというところから始まって。こうやって考えると、一人称や三人称は二人称の応用的ヴァリエーションなんだよね。基本は二人称なんだ。
まあ、いろいろ書いてきたけど、私が「あなた」に対する態度は、いわば「無償の贈与」なんだよね。自分を犠牲にして何かを相手に与える。というか、自分を犠牲にすることになるかならないかに関係なく「贈与」するってことなんだよね。なぜなら、相手にとって「ありがたい」かどうかに、自分がどうかは関係ないから。だから、相手は「感謝」して、その二人の関係を続けようとする。つまり、このことの

  • 多くの事実

がない限り、こういった人間社会は存在していないわけだ。
というかさ。実際に私たちは「そう」振る舞っているんじゃないだろうか。一番分かりやすい例が「愛」であろう。あなたは、ある人と「結婚」する。それって、一種の「無償の贈与」なんじゃないのかな。そして、別にあなたはそうやって「結婚」した相手に対してだけ「愛」を与えてきたわけではないよね。いろいろな人に「愛」を与えてきたし、その量が大きかったのが「結婚」した相手だっただけであって。
上記の引用にもあるように、そもそもさ。自分の「欲望」しか行動の原理がないなら、だれも「成長」しないよねw それこそ、リフレ派の人が好きな言葉の「成長」だよ。なんらかの「外部」性の体験がなければ、「成長」なんてしないんだから、私たちは「合理的」であろうと「不合理」であろうと、「外部」性を受動的に取り込んでいるんだよね。それこそ「無償の贈与」だよ。
ところで、掲題の論文のおもしろいところは、補論として、永井均批判が書かれているところなのかもしれない。

そして、このように言われる利己主義は、経験に先立つ人間理解の枠組みに関する、彼が言うところの「超越論的」立場であることに注意したい。

問題は、人間はみな利己主義者で自分にとって好いことしかやらない、というこの原理が、経験的事実を述べたものなのか、それとも経験に先立つ人間理解の枠組みを述べたものなのか、という点にある。......でも、経験に先立つ枠組みを述べたものなら、この原理には例外はないことになる。どんな精神状態でどんな行動をしようと、まともな人間はつねに必ず自分にとって好いことだけをしようとしている、そうとらえたとき、はじめて人間の行動は理解可能なものになる、というわけだ。(永井[1996]148)

まず、永井の言う「経験に先立つ人間理解の枠組みに関する」、「超越論的」利己主義とは何か。もう一度、引用したい。

でも、経験に先立つ枠組みを述べたものなら、この原理には例外はないことになる。どんな精神状態でどんな行動をしようと、まともな人間はつねに必ず自分にとって好いことだけをしようとしている、そうとらえたとき、はじめて人間の行動は理解可能なものになる、というわけだ。(永井[1996]148)

ここで言われる「原理」は実践理性の原理であるように思われる。もしそうであれば、「道徳を包み込んだ『超越論的』利己主義の立場から道徳の要求を尊重する理由を探す」ことは、本論の第4部の試みそのものだということになる。永井は「道徳が常に優先される理由などない」言うが、11・2では、この立場から、超越論的でない利己主義を尊重する立場、すなわち倫理的利己主義には反論を与えることができること示した。

上記の引用を読む限り、結局のところ、永井の言う「超越論的」利己主義は、実践理性の原理であり、この論文における倫理的利己主義と同様のことを言っているように少なくとも字面上は読めるわけであるが、その辺りは永井自身は同意するのだろうか? もし同意するとするなら、掲題の論文にある11・2にある以下の議論をどのように答えるのか、ということになるのであろう。

しかし、実践理性の命令という意味で、「倫理的」を扱ったとしても、レイチェルズの反論は倫理的利己主義に対する一つの反論になるように思われる。10・1で示したとおり、道徳は実践理性の一側面だからである。そこで、上の一般原理は、実践理性の一側面だと考えてみよう。実践理性は次のように命じる。

もし扱いのちがいを正当化することに関連した事実に関するちがいが人々のなかにあることを我々が示せないならば、我々はその人々を異なる仕方で扱うべきでない。

私とあなたのちがいが扱いのちがいを正当化することに関連した事実に関するちがいであることを、倫理的利己主義者が示さないかぎり、倫理的利己主義は実践理性のこの命令と調和しない。これは倫理的利己主義に対する一つの反論である。

うーん。永井均の昔からの議論に、「独我論」というものがある。これについては細かいところについては、いろいろ議論があるとしても、基本的には受け入れ可能な議論なのだろう。しかし、それとニーチェの「道徳批判」は別の議論なんじゃないだろうか。そこが永井の議論では混乱している印象を受けるのだが。
独我論は自らの自我を、一つの特権的な立ち位置として他の自我を「従属」的な位置に考えるわけだが、このことと、いわゆる「不可知論」というのは、まったく相性がよくない印象を受ける。
不可知論というのは、例えば、あなたはこの世界のある地域に住んでいるわけであり、とりあえず、身の回りのことについては、なんらかの「見識」なり「蘊蓄」をもっているわけだが、今まで自分がまったく関わったことがない、非常に複雑な「人間活動」が、この人間社会のあちこちで、行われているわけであり、また、そこには、自分がまったく勉強したことさえない、複雑な数学理論が適用されていたりするわけであるけど、つまり、この「独我論」的な自らの自我の

  • 世界

であるはずなのに、どうも、どう考えても「自分が想像できない」ようなことが、まさに

  • 印(しるし)

のようにして、「刻まれている」ことに、私たちは事後的に「発見」する。なぜ、こんなことが起きるのだろう? 独我論とは、まさにこの世界は「私の意識が作りあげたもの」であったはずなのに、なぜ自らが意識できていないような、そういった「複雑」性が

  • すでに、勝手に

繁栄されているのだろうか?
ここでは、この二つを以下のように整理してみよう。

なぜ永井の議論は、不可解なのか。そそらくそれは、この「道徳」の問題を彼は「不可知論」の文脈ではなく、「独我論」の文脈で議論できる、と考えたからなのではないか。そのため、上記のような混乱が起きているのではないか(この混乱は、おそらく、リチャード・ローティの「公私の区別」の議論や、筒井康隆による芸術「聖域」論においても、似たような形で起きている印象を受ける)。
なぜ多くの場合、このように「道徳」の議論は混乱するのか。おそらく、道徳が一般には「単純な形式」によって記述されているから、と考えられる。本来であるなら、より「正確」な記述が求められるのだろうが、それがほとんど不可能なくらいに複雑なのであろう。
ではなぜ、道徳は多くの場合、野蛮に単純化されているのか? それを上記では「子ども」のため、と書いた。しかし、ここでの「不可知論」の立場を考えれば、そもそも私たちは「複雑」な命令に厳密に従えないのだ。というのは、

  • そこまで世界の細部を知らない

から。それは自分が子どもか大人かなんて関係ない。大人だろうが知らないものは知らないのだ。だとするなら、多くの場合、道徳は「野蛮な単純化」とならなければならない。そして、「それ」を伝える側も受けとる側も「そういうもの」として受けとるしかないのだ。大事なポイントは、

  • それでお互いが「困らない」

というところにある...。
Kyoto University Research Information Repository: ‘Why Be Moral?’問題の再検討