道徳の「存在証明」

道徳は物理法則のようには存在しないのだから、つまりは存在しないのだから、道徳に従わなくていい。人間はなにをやってもいい、というのが「非道徳主義者」だというわけだが、ここでのポイントは「非」つまり、道徳は「ない」にある。
しかし、「ない」と言っておきながら、実際には、私たちは「道徳」という言葉を具体的な「何か」を指示するものとして使っているわけで、そう考えるなら、この道徳が「ない」という表現も、ニーチェ一流の「ニヒリズム」であって、一種の「反語」なのだ。
ないものがある。これは、どういうことか?
例えば、こんな例を考えてみればいい。一切の道徳を否定した、「王様」がある独裁国家を作ったとする。国民は全員奴隷であり、王様に逆らったら、即その場で死刑である。
ところが、である。
時間が経つにつれて、なぜかその王様は「失脚」して、以前の民主国家に戻ったというわけである。そして同じことは何度でも続く。またさらに、新たな「テクノロジー」によって、国民を「支配」する能力をアーリーアダプターw的に発見した「王様」が、自らの独裁政権を作ったのだが、これも次第に時間の経過と共に、以前の民主国家に戻ってしまった。
さて。
私たちは「道徳はない」ということを証明することを目的として、その「内容」を「そのまま」実現しようとした独裁者(ここでは、それを「非道徳イデオロギー」者と呼んでおこう)が、自らの「主張」が正しいことを実現するために、ある「実験」を何度も行ったわけだが、そこで示された結論は、

  • 何度やっても、また国民は「道徳」に従い始めてしまう(独裁国家を民主国家に変えてしまう)

であった、というわけである。さて。これって、一種の((カントの)実践理性的な意味での道徳の存在の)「証明」になっているんじゃないかな...。