アニメ「虐殺器官」について

さっそく、映画館でアニメ「虐殺器官」を見たわけだが、前二作のような、アニメゆえのチャレンジングな試みをやろうといった衒いもなく、まさに、伊藤作品のイントロダクションとして、ポイントをおさえた作品になっていた、ということではないかと思う。
正直、私はこの「虐殺器官」のあまりいい読者ではないが、作者の処女作品として、いろいろなものをつめこんで、やっとこれから始まるといった、猥雑さを感じる、とてもアマチュア的な作品だと思うわけで、そういう意味では、この作品はさまざまな要素があるだけに、なかなか読み解けない印象はある。
ただ、基本的には、やはり最後のクライマックスのクラヴィスがジョン・ポールと対決する場面で、ルツィアの「死」が決定的に事態を決着させてしまう場面が問題だとは思うのだが、確かに「女性」という「他者=個人」が、作品の

  • 唯一性

を意味させる形の物語の展開は、ハードボイルド小説のお決まりとも言えるわけで、そういう意味では、こういった形のクライマックスにすることをあまり批判はしたくないけど、だとするなら、大きな違和感を与えるのは、ジョン・ポールの態度なわけであろう。
サラエボの爆発で、妻と子どもを失ったジョン・ポールが、自らが発見した「虐殺文法」を、

ことが、

  • 功利主義的な意味で、白人社会を守ることに比べて、その他の発展途上国がお互いで殺し合いをして滅びてくれることによって、人口が増えすぎた人間が生き残る上では、自分にとって「共感」しやすい

というのは、いや、あんたの家族はもう死んでいるわけで、そういった状況ででも、「白人共同体」の方が自分にとって価値が高く感じるみたいな話は、ものすごい違和感を覚えるわけですよね。
つまり、自分の家族がもう死んでいるのに、自分が白人なんで、白人の方がそれ以外より価値があるように思えるって、いや、そんなことを言っている場合なのかね、と思わざるをえないわけでしょう。
なんか、こういうところが、安っぽい理屈だよなあ、と思うんですよね。
ラヴィスとジョン・ポールはルツィアの死に対して、なんらかの彼女の「遺志を継ぐ」的な意味で、二人は行動するわけだけど、そういった「倫理」的な価値の問題と、功利主義的な価値の問題を、ここでは「対決」させようとしたんだろうけど、だとするなら、もう少しルツィアを「魅力的」に、なぜ作者は描こうとしないんですかね。つまり、彼女に、クラヴィスやジョン・ポールがどこまで

  • コミットメント

したのか、といったことを説得的に描かないと、なんか下手くそな印象を受けてしまうんですよね。
だから、もしもこの作品をより文学的に昇華させていく方向を考えるなら、このアニメでははしょられてしまった、クラヴィスの内面であり、彼の心の中の母親との複雑な葛藤を中心に描いた方が、説得的な作品にはなったのだろうけど、そうすると、今度はこの話の展開が、瑣末な問題に寄り道しすぎて、見通しがわるくなるとか、まあ、いろいろあって、よりシンプルな構成になったんだとは思うけれど。
そう考えると、本来なら、アニメ「屍者の帝国」のような、よりチャレンジングな脚本に挑戦するというのも、一つの方向だったようには思うけれど、そこはあまり作者の方向性と違ったものは目指せない、という規制がかかった、ということなのだろうか...。