戦前日本のプロパガンダとエリート

この前紹介した、バラク・クシュナーの『思想戦』という本のおもしろいところは、この本が、

  • 外国の人に、外国の人が、日本を紹介している

という形になっているところで、具体的には「戦前の日本のプロパガンダ」について研究して、ということになる。
つまり、この本で書かれていることは、外国の方にとって多くの場合、「違和感」をもたれる日本の特性が、外国の方たちの「共通感覚」において書かれている、ということになる。

戦時下日本のプロパガンダは、日本との比較でよく挙げられる第二次世界大戦中の他のファシスト政権国家をはるかに凌駕する規模で国家動員を後押ししていた。この人口七千万人の小さな島は、十五年にわたる戦争で中国を侵略し、中国北部に傀儡政権を築きあげ、東南アジアの広域を占領・植民地化し、中国のみならず米国・英国・オーストラリアとの血みどろの戦争を行った。さらに、ドイツやイタリアと異なり、日本では多数の一般人や知識人が国外逃亡することもなく、また、一九三〇、四〇年代の軍事侵攻が政府や軍部に対する大規模な国内反乱を生じさせることもなかった。十五年に及ぶアジアの覇権を巡る戦争で、日本人一般大衆は個人的な不自由と経済的な貧窮に苦しみながらも、大日本帝国の防衛と拡張に全力を注いでいたのだ。

思想戦 大日本帝国のプロパガンダ

思想戦 大日本帝国のプロパガンダ

例えば、ナチス・ドイツにしても、イタリアのファシスト政権にして、基本的に全体主義国家で起きることは

  • 亡命

のはずなのですが、上記にあるように、こと「(日本列島出身の)日本人」と限ると、

  • 多数の一般人や知識人が国外逃亡することもなく

となるわけで、これってなんなのか、ということになるわけである。なぜ日本人は「亡命」しないのだろう? そこにはおそらく、「言語」の問題がある。日本語しかできない日本人たちは、例えば、アメリカやイギリスに「亡命」をしようにも、「つて」がない、ということだったのかもしれない。その点は、ナチス・ドイツ帝国において、多くのユダヤ人たちが、アメリカに亡命したこととは大きな差異となっている(こう言うと、一般の日本人は、「日本はアメリカと戦っているんだから、アメリカに亡命できるわけがない」と思うかもしれない。しかし、そもそも亡命するかしないかは、

  • 正義

に関係している。日本のやっていることが「問題」だと思うなら、そもそも、日本国内での自己改革に限界があるなら、その他の選択肢としては、そういった

  • 正義

を尊重してくれる国に「移民」をするしかないわけであろう。
(そういう意味では、今のアメリカのトランプ政権の移民規制は、特に、アメリカに仕事で行かざるをえない日本人にとっては、死活問題だということになる。)

権力が分散していた当時の軍部・政治状況を象徴しているかのごとく、日本には全てのプロパガンダ政策を統括する機関や省庁は存在しなかったからだ。日本では、ナチスのヨーゼフ・ゲッペルス(Joseph Goebbels)国民啓蒙・宣伝大臣に相当する人物は誕生しなかったのだ。勿論、日本でも複数の政府・民間プロパガンダ組織は存在したが、ナチスプロパガンダ組織の頂点に君臨するアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)とゲッペルスのような単独の権威は存在しなかった。ヒトラーは、プロパガンダを通じて遅るメッセージは単純で、偏見を助長させるものであるべきと考えていた。ゲッペルスヒトラーの示した大まかな方向性に沿いながらも、さらにプロパガンダを行う側は気を緩めてはいならないとの主張を繰り返し行っている。ナチス党への加入を希望する人々や、党への高感度を維持するためには、党の地位が磐石となった後も、常に新たなプロパガンダを制作し続ける必要があるとおいのがその理由だ。
思想戦 大日本帝国のプロパガンダ

欧米では一般的に、プロパガンダという言葉は歴史的に否定的な意味合いを含んでいる。第二次世界大戦中、英国の外交官はナチスとの戦争に米国が参戦するように説得しようとしながらも、その行為をプロパガンダという言葉で形容しないように注意をしていた。米国人はプロパガンダを、真実を曲解し現実を歪曲させる非民主的な活動とみなしていた。
思想戦 大日本帝国のプロパガンダ

日本の戦前のプロパガンダは、どこか、フーコーの言う「権力」に似ている。だから、ポストモダン哲学者たちが

  • 嬉々として喜ぶ

わけであるw 「権力」が民衆の生活の隅々に、顕在している、と。しかし逆に、なぜそれが可能になっているのかと考えると、日本語という共通のプラットフォームが情報の伝達の「高速化」を実現しているために、簡単に「デマ」や「噂」が伝播してしまうとか、そういった村社会独自の環境にも関係しているわけであろう。
そもそも、プロパガンダとは「嘘」や「はったり」を信じさせて、他者を操ろうといった行為に関係する。だから、それを行う国家の組織の「一元化」が重要になる。つまり、そもそもプロパガンダは「独裁者」が

  • 全ての国民

を「操る」ことを意味しているのであって、その対象はエリートであろうと関係ないわけだ。
ところが日本におけるプロパガンダ言説は、非常に奇妙であって、国民にアンケートをすると「国家はもっと国民に対してプロパガンダ」を行うべきだ、みたいな回答が次々と返ってくる。
日本においては、教育の一元化があまりに進化したため、国民はより「優秀」であればあるほど、もうすでに「国家の操り人形」になっている(まあ、それがオウム真理教の麻原への帰依となにも違わないということへの自覚もない)。つまり、教育によって、

  • お前は国家の側として、国民を操る「特権」が与えられている

みたいな「教育」がうまくいきすぎていて、もう勝手に「どうやったら国民を操って、国家のために丁稚奉公できるか」みたいな思考回路が、もう、ほんとの幼い頃から、教育で刷り込まれちゃっているんですよね。
学校という、親たちと隔離された場所に閉じ込められて、教えられることは、「どうやって国家の命令に、回りの大人たちを従わせるか」みたいな密教だったりするわけで、まあ、そのために、学校は地域社会と「隔離」された密室で行われている、と考えることもできる。

戦前・戦時中の日本の主要目的は「日本人を様々な国家プロジェクトの積極的な参加者へと仕立てあげる」ことだった。正式に決定された国家政策に国民を同調させる運動は、「道徳的説得」の一環として「教化」という言葉で説明された。
思想戦 大日本帝国のプロパガンダ

つまり、どういうことかというと、日本においては、「エリート」はまさに「エリート」であるがゆえに、国家がなにも言わなくても、「どうやったら大衆をだまくらかして、国家の奴隷として働かせるか」みたいなことを、毎日死ぬまで考える癖を、トレーニングされすぎて、そんなことばかり、毎日考えている。そして、そういった「優秀」な自分を

  • 自己アッピール

にして、自分を国家に「売り込む」ことを考えている。そういった「妄想」ばかり、大きくふくらませている、ということなんですかね...。