ゴミ化社会

ある日、くじらが砂浜にうちあげられてて、死んでいたので、解剖してお腹の中を見たら、プラスチックのビニールゴミが大量にでてきた、というニュースをいつだったかやっていたのを見て、なるほど、こうやって地球の「終わり」が始まるんだな、なんて思ったものだが。
例えば、近所のスーパーで売っている「新鮮」な果物を買って食べようかな、と思ったとき、おそらくその果物には、無数の私たちがよく知らない

  • 農薬

が使われているわけで、いやそんな微量なら人間に影響なんてないだろー、って、こういったレトリック、3・11の福島第一の低線量放射性物質のときも聞いたなー、と思ったり。
あーそーなんだー、「この程度」なら、体に影響ないんだー、って、もしそうなら、なんで現代社会の人々は、花粉症から始まって多くの「都会病」に悩まされているんだろうねw
中国の大気汚染に比べても、インドの大気汚染はひどいという話も同じで、これが資本主義なんだ、ってことなのでしょう。
そもそも、「ゴミ」ってなんだろうね。産廃業者ってほんとに法律を守って、ゴミを処理しているのかな。適当に山や海とかに捨ててしまえば、実際に

  • 安く

なるわけだし、彼らはそういったものが見つかるかもしれない「リスク」と秤にかけて、適当に処理している場合だってあるんじゃないのか(少なくとも、悪質な業者はそういう場合が往々にあるのだろう)。
ある地域社会が、「心地よい」秩序を保っているのは、そういった社会の秩序破壊者が比較的少ない、ということを意味しているのであろうが、もしもあなたが「明日にはその地を離れて、もう戻ってくるつもりもない」となったら、どこまでその地を汚すことをためらうであろうか。
まさに、「旅の恥はかき捨て」みたいな話で、その社会を「汚す」ことと資本主義的な「便利さ」や「快適さ」が天秤にかけられて、判断される、今の「個人主義」にはどこか限界があるのではないか?
資本主義は社会を「ゴミ化」する。そしてその「ゴミ」は、環境の細部に侵食し、容易には取り除くことができない。つまり、漸次的に地球は少しずつ動物が住めない環境に移行する。人間は、地球に住めなくなる。というか、外部と遮断されたビニールハウスのような滅菌された空間でしか、自らを保てなくなる。
アメリカ大統領選挙で、フェイクニュースが選挙結果を左右したのではないか、と思われている。その可能性はあるだろう。なぜなら、多くの人々はそこまでリテラシーが高くないからだ。みんなが大学に進学していて、というわけではない。知らない話をされれば、なんとなく雰囲気で「嫌だな」と思ったりする。ようするに、あらゆるテキストは人々を

をしようとして配信されるのであって、その「効果」において「有用」だと功利主義的に判断されるなら、どんなフェイクニュースも電波される。
社会は「ゴミ」化されるし、その「ゴミ」は容易には取り除けない。つまり、ここに非対照性がある。「ゴミ」を社会にばらまくことの「容易」さに比べ、それを社会から「取り除く」ことの「難しさ」にあまりにもの差があるわけだ。
つまりは、どういうことだろう? 「ゴミ」は資本主義という

を表象する。私たちが資本主義という利便性を享受する限り、「ゴミ」化社会という原罪を背負い続けることを意味する。つまり、「ゴミ」は資本主義の宿命であり宿痾であり、資本主義の終わり、人間の終わりを予兆する...。