カント実践理性批判の抗いがたい「魅力」

いまさら言うまでもないが、カントの実践理性批判は、端的に間違っているし、「トンデモ」だと言ってもいいが、このカントの主張があまりにも

  • 魅力的

であるがゆえに、多くの人々が「魅き付けられ」て、なんとかして、このカントの主張を「合理的」に解釈したいという、次から次へと現れるチャレンジャーを次々と生み出してきた、というところにある。
なぜカントの実践理性批判が「間違っている」かというなら、端的に「矛盾」しているから、ということになるわけだが、ようするに、カントはこの「矛盾」など

  • どうでもいい

と思った、ということなわけである。そんなこと「以上」に人々に言わなければならないことがあるし、人に必要なことがある、とカントは考えたのであって、ようするに、このカントの「置き土産」は後世の人々に投げっ放しにされたままにある、ということなのだ。
とはいっても、今さらカントのアイデアについて説明するまでもないであろう。カントは道徳の根本に「自律」を置いた。しかし、他方において、道徳は「義務」だと言う。つまり、

  • 自らがその「法則」に「自ら」の「法則」によって従う

といったような構造になっている。つまり、コースガードに言わせれば、これは「アイデンティティ」のことだと言っていいだろう。一方において、「義務」だと言いながら、他方において「自由」だと言う。一見するとこの二つは「矛盾」しているが、ようするに

という解釈によって、この二つが裏側から繋がる。
しかし、もしもこれがコースガードの言うように「アイデンティティ」だとするなら、なぜこれが「道徳」になりうるのか? もっと言えば、なぜここから、尊厳概念のような「普遍的」な命題が「正しい」となりうるのか。
ようするにどういうことかというと、カントは一見すると、どう考えても「共存」不可能に思われる、以下の三つが同時に成立しうる、ということを「なんの論証もなし」で、主張した、というわけである。

  • 自律=自由
  • 義務=ルールに従う
  • 普遍性=道徳的価値

カントは普通に考えると、どうしても「共存」が無理に思われる、この「トリレンマ」を、まあ、なんの論証もなしに主張するわけだがw、この潔さっぷりに、彼の胆力を感じるわけである。つまり、カントはこの主張がどう考えても無理があるなんていうことは、百も承知だったが、だからこそ「あえて」これを主張した。
なぜか?
まあ、彼が「キリスト教徒」だったから、と言ってもいいのだろう。いや、ダーウォル的な「二人称」的な解釈から考えるなら、キリスト教というよりも神というよりも、

という「他者」との「二人称的関係」を考えるなら、むしろ、上記のトリレンマが矛盾であってはならないのだ!

たとえば、消極的理由を考えてみよう。消極的に自由であるためには、わたしは、何を行うべきかをめぐって熟慮し、その熟慮の結果に基づいて、自らを「規定する外からの原因から独立に」行為することができるのでなければならない、もちろん、この意味で消極的に自由であるかどうか、わたしは言うことはできない。しかし、「外からの原因」をわたしの推論に干渉する原因と解釈するなら、たしかにわたしは消極的に自由であるという規定の下で熟慮せざるをえないように思われる。真剣な実践的熟慮は、何が行う理由のあることかを、その理由に基づいて行為することを目的として、考えて答えを出すことである。そもそも熟慮していることになるためには、自らが理性的に考えていることが、あるいは実践的理由に基づいて行為していることが、その意味での「外からの原因」によって妨げられないという前提の下で進まなければならないのである。

二人称的観点の倫理学: 道徳・尊敬・責任 (叢書・ウニベルシタス)

二人称的観点の倫理学: 道徳・尊敬・責任 (叢書・ウニベルシタス)

この指摘は重要というか、ようするに、「自由」ということを考えるなら、「二人称」的観点は

  • 邪魔

なのだ。なぜなら、「自由」とは「外からの原因」が

  • ない

という意味だと解釈できるのだから、そう考えるなら自由であるためには「一人称」的でなければならない、と言っているのと変わらない。
しかし、である。
よく考えてみよう。これって、なにかが変だと思わないか?
だって、私たちが生きている上において「一人」でなんて、ありうるだろうか? いつもいつも、「他者」との関係、二人称的関係の中で実際に生きているし、生きざるをえないわけであろう。だとするなら、この「前提」自体が、ありえないことを言っていることが分かるであろう。
ようするに、これがカントの言う「実践」理性という意味なのだが、上記の「トリレンマ」は

  • 三つとも成立しない

がゆえに、

  • 三つとも成立する

という「論理」によって、つまり、

  • (一人称的観点からは)三つとも成立しない

がゆえに、

  • (二人称的観点からは)三つとも成立する

という形になっているがゆえに、私たちをカントは魅き付けて止まない、と言っているわけである...。