道徳の「自然化」

近代における「自然科学」、つまり、「実験科学」が主張している内容を考えるなら、私たちが「実験科学」 において実験する「対象」と

  • 同じ

ように「人間」も扱えるのではないか、と考えることは論理的に一貫していて、見通しがすっきりすると思われるわけであろう。
しかし、もしもそうであるなら、人間には「自由」があるだとか「意志」があるといった議論は、かなりの割合で「排除」しなければならない、ということになるであろう。自然科学とは「因果関係」を議論する学問なのであるから、自由意志という表現自体が「矛盾」だからだ。あらゆる「変化」には「原因」がある。ならば、自由意志で判断して行われる行動も当然、「原因」がある。
しかし、もしもこの人間社会に「原因」があるのであれば、そもそも人間の「責任」を問うことは不可能だ、ということにならないか。
ある人がある犯罪を犯したとする。しかし、その人は子どもの頃、さまざまな「虐待」を受けていて、むしろその犯罪はそういった「虐待」を「原因」にしたものだと理解できるのであれば、その犯罪は「罪」ではなく「病気」なのではないか、というわけである。つまり「罰」ではなく「治療」が必要なのだ、と。
ここにおいて、どんな犯罪者も

  • かわいそう=共感

という観点で「解釈」されるようになる。つまり、一切の刑罰こそがむしろ「罪」なのであって、個別の罪を問うてはならない、ということになる。これが

である。功利主義は、各自の「道徳=罪」に興味がない。彼らが興味があるのは、「結果」として「得」をするかどうか、である。どんな犯罪者が犯した「罪」であろうと、それで私たちが「得」になるなら、なぜそのことを問題にするのか、と。よって、一切は「得」か「損」かの二分法となる。
こういった一般に世に言う「功利主義」者たちの立場は、まさに「結果」についての「吟味」が、義務論的な態度の

  • 直観性

の「野蛮さ」を克服していく過程として理解されている。つまり、この世界に「罪」はない。罪とは「義務」という「ルール」が生み出した。つまり、人間が作り出した「虚構」にすぎない。もっと言えば、人間「が」虚構なのだ。
人間なんて存在しない。
これは人間がこの世界にいない、ということではなく、人間が動物や生物、もっと言えば、自然科学的対象の「外」の存在ではなく、中の存在なのであって、そういったものと区別されて語られるこの方が欺瞞なんだ、ということになる。
こういった態度に一定の留保をつけて反対したのが、ダニエル・C・デネットだということになる。

キャプテン・オートノミーは一流大学を出て一流商社に就職し、腐敗した同僚たちに倣って退廃した金銭感覚を身につけ、強欲な女に入れあげて横領を行い、目撃者を事故に見せかけて殺す。この改訂は人間に道徳的責任があることを証明するわけではないが、本質的でない変更によって「非難よりも憐れみに傾く」という印象が失われるとすれば、元々の思考実験が疑わしいものだったことになる。
(木島泰三「自由意志と刑罰の未来」)

atプラス32(吉川浩満編集協力)

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この議論は、ハンナ・アレントによるルソーやロベスピエールの「一般意志」批判と非常に似ている印象を受ける。アレントがルソーやロベスピエールの主張する「一般意志」がナチススターリンの「独裁」に容易に変わる原因を彼らが主張する「憐れみ」が、簡単に「裏切られた」という感情に変わることに見出す。つまり、実際の相手が憐れだと感じるとか感じないといったことになんらかの「法則」があると思うことの

  • 人間

に対する「傲慢さ」が見出せる、と主張したわけである。ある貧乏な人がいるとして、その人が人間的に「イノセント=純粋」であると仮定するのが、ルソーの「自然人」であるが、それははるか彼方の過去の話にすぎない。そもそも、そういった存在と

  • 目の前の具体的な人間

をそういったものと同一視する方がどうかしている。裁判はそういった具体的な過程である。どんなに貧しくても「イノセント」かどうかにまったく、文脈に依存する。貧しかろうがなんだろうが、今という時代を生きている存在ならお金持ちと同じように、さまざまな判断をして生きている。ときには人を欺いてでも得をしようとする。そういった傾向性は別に、お金持ちだろうが貧乏人だろうが変わらないわけだ。
おそらく、「サイコパス」という概念は、こういった功利主義の文脈からあらわれている。サイコパスは自ら「犯罪」を犯すが、重要なポイントはそれが「功利主義」の文脈では「人々の幸福を増大させている」と解釈できる、となっていることだ。
つまり、功利主義とはカントの義務論と戦っていることが示しているように、義務論的道徳は「間違っている」という主張なのであって、そういったものと対立する「道徳」として、功利主義を主張している、というところがポイントだ、ということになる。
このことは、功利主義者のジョシュア・グリーンによる「実験倫理学」をめぐる言説のある種の「混乱」がよく説明しているのだろう。

その結果、義務論的判断と功利主義的判断の違いをもたらす要素のひとつとして、一人を犠牲にするのが五人を救う行為のための手段であるのか、それともその行為の副作用なのか、という違いがあることが発見された(Greene et al. 2009)。歩道橋から人を突き落とするのは多くの人を救うための手段であるが、スイッチを切り替えて一人を犠牲にするのは、多くの人を救うことの副作用である、という違いだ。
(飯島和樹・片岡雅和「トロッコに乗って本当の自分を探しに行こう」)
atプラス32(吉川浩満編集協力)

ところが、手段と副作用の区別が道徳的に重要だというのは、まさに「二重結果原理」というかたちで、直観を重視する人々が主張してきたことだ。
(飯島和樹・片岡雅和「トロッコに乗って本当の自分を探しに行こう」)
atプラス32(吉川浩満編集協力)

しかし、そもそも、最大多数の最大幸福の実現が道徳的問題の解決であるのか否かという点こそ、哲学者たちが争っていた点ではなかったのか。
(飯島和樹・片岡雅和「トロッコに乗って本当の自分を探しに行こう」)
atプラス32(吉川浩満編集協力)

どうしてこういうことになるのだろう? 功利主義とは「実験科学」なのだ。だから、実際の言葉による「説明」とは別に

  • 対象

という「自然」がある、という態度なのだろう。だから、その対象がどういったように説明されるのかに興味がない。なんであれ、「自然」は一つなのだから、それをどうやって「合理的」に理解するかの違いでしかない。だから、非常に短絡した説明の「優劣」といったことを言いたがる。
他方、義務論はそもそもそういったレベルで考えていない。その「命令」がどういった社会的な「効果」をもたらすか、といった観点で一貫して考えているのであって、一つ一つの「言説」を自分が今もっているさまざまな、この世界についての「解釈」の文脈から受け入れられるかどうか、といった(カント的な意味での)「総合」的な視点で理解している。
このことを非常に通俗的な言い方で説明するなら、功利主義は「超越論的」ではないが、義務論は「超越論的」だ、ということになるであろう。
もっと言えば、義務論は「言語論」的な文脈で考えているが、功利主義には「なぜか」その視点がない、ということになるだろう。
さて。将来の人類において、人間は完全に「自然化」するだろうか? つまり、実験科学によって人間を完全に「記述」する日が来るだろうか? しかし、そのことは結局のところ、何を言っていることになるのだろう? つまり、

  • 自己言及性

の問題である。自分について自分が語るとは、なんなのか。それを「パフォーマンス」で見れば、だれでも自分を「良い」ように見せたがるであろう。そのことと、自然の「正確」な記述は整合的なのだろうか? 一方はそんなことはたいしたことではない、実際に今だって、うまく操れているのだから、みたいに斥けるだろうし(ある種のマクロ経済政策の成功例を挙げたりして)、他方はそういった態度に徹底して疑いをもち続けるであろう(利益相反の問題を挙げたりして)。
これは、哲学が一般理論(=歴史法則)として整理されてきた文脈と、懐疑論として「批判」の学問として整理されてきた文脈の二つの対象をよく示しているようにも思われる。
私に言わせれば、功利主義は「人間とはマルマルな存在である」と勝手に定義している印象がある。だから、実験科学的に整理できるのだろう。対して、義務論はそもそも、そういった態度自体を傲慢だとして批判しているわけだ。まさに、カント的な意味で「有限な存在」として人間の能力を定義しているわけで、だからこそ、少ない結果(ルール)で我慢しなければならない、となっているわけで、そもそも話がかみあっていないのだ...。