映画「BLAME(ブラム)」の世界

とりあえず、私は映画館で「BLAME(ブラム)」を見たのだが、まったく、予備知識をもたずに見たからか、とても楽しめた。
この世界は現代における

  • 世界政府

幻想を徹底的に破壊している。この世界は一種の「パラドックス」として描かれている。つまり、なぜ「未来社会」であるのに「村」なのか、という。しかし、おそらくこの世界観は正しいわけである。
この世界における世界政府は確かに「コンピュータ」である。コンピュータが、なんらかの「ウィルス」に感染して、人間に反旗をひるがえしたという構造になっているが、それが人間かコンピュータはたいした問題ではない。
問題は「同じ」人間かどうかではない。その人間が「信頼」できるかどうかなのだ。
この世界で描かれている「村」は、そういった「信頼」の最小単位の規模がどれくらいなのかをよく説明している。
例えば、EUにしても、NAFTAにしても、TPPにしても、こういった地域連合は一種の

  • 帝国

としての様相を示しているが、これは最初から「民主主義」ではない。だれだか分からない一部の「エリート」がどんな権限があるのか分からないけど、勝手に彼らが「決定」する社会であり、そういう意味では、その「決定」をコンピュータがやっていようが、変わらないわけである。
むしろ、民主主義の萌芽はもやは、その「村」の中にしか見出せない。おこらく、これからの世界はこういった「BLAME(ブラム)」のような世界になっていくであろう。
この世界において、唯一「特異」な様相を示しているのが、霧亥(killy)である。彼は何者なのだろう? 彼は「旅人」である。このどう考えても生き延びることが不可能な世界政府によって支配されている外世界を放浪している。ではなぜ彼は外世界を生き延びられるのか? それを一種の「ヒーロー」とか「強者」といった比喩で理解してはならない。そうではなく、彼はそういった外世界の

  • 作法

を理解しているのだ。つまり、大事なポイントは、村人にとって、霧亥がなにを目的にしているのか、なにをやっているのか、さっぱり理解できない、というところになる。
おそらく、霧亥は、「可能性」としてのグローバル・エリートの隠喩なのだ。彼をそもそも村人は理解できない。理解できないが、「排除」もしない。確かに、霧亥の活躍によって、村人は救われるし、そのことを村人も理解し感謝はするが、そのことと、霧亥を村人が「理解」できるかは、まったく別の話なのだ。
いわば、村人は「まきこまれ」系である。霧亥のなんらかの「目的」に関係した行動によって、結果として「救われる」のだが、そのことが何を意味しているのかを、村人は理解できない。村人は、とにかく、なにがあったのかを理解できないが、結果として「救われた」ことだけは理解している。
おそらく、これが「未来」の人間社会のモデルなのであろう...。