安藤馨・大屋雄裕『法哲学と法哲学の対話』

例えば、ストローソンの「自由と怒り」においても、ある「奇妙」なやりとりについて記述されている。つまり、私が「怒る」とき、それは相手が「怒る」ことをある意味で、「含んでいる」相手であることを前提にしている。例えば、なんらかの精神障害でうまく話せない人が自分に「失礼」な態度をとったとしても、一般の場合のようには「怒らない」。
では、その二つには一体どんな差異があるのか、と考えてみても、うまく説明ができない。
つまり、なんらかの「メンバーシップ」の観念がそこにはあって、ある種の「メンバー」として扱われるお互いには、一定の「要求」が正当化されるような「契約」のようなものがあるんだ、という感覚がある、ということを意味する。
例えば、映画「BLAME(ブラム)」の村人を考えてみよう。彼らは、その村の外に同じ人間がいることを知らない。それは、今まで出会ったことがないから、と説明するしかない。しかし、一つだけ例外があった。それが、霧亥(killy)であった。しかし、後にも先にも、霧亥以外の村の外の人間に出会ったことはない。
では彼らに「人権」という観念を理解させることは可能だろうか? または、「人間の尊厳」といったようなものを。
もちろん、ほとんど不可能であろうが、他方において彼らはそれを知らなかったとしても、「人権」や「人間の尊厳」に

  • 反する

ような「行動」を行えるだろうか? 私は何をここで言っているのか? 私はある「条件」について考えている。それは、「言葉」は別に「普遍的」な

  • 文法

のようなものではない、ということなのだ。大事なことは、新しい状況が新しい「言葉」を作るということであって、そういった必要のない社会は、そういった言葉すら生まれすらしない、ということなのだ。
私はそういう意味で「普遍主義」に反対だと言っているのと変わらないが、そのことの意味は、「普遍的」であると自称することが普遍的であることを意味しない、と考えているから、ということに尽きる。むしろ、局所的なものこそが、裏側で

  • 普遍的

なものへと繋がっていることは往々にして起きることなのであって、私にとって大事なことはそこにある倫理的な態度だ、ということになるだろう。

一読してわかる通り、冒頭の異星人は我々人類が他の生物種に対して取っている態度を示している。たとえばエゾシカの個体数が増えすぎて飢餓が生じているというとき、その一定数を「除去」することを我々はしばしば選択するだろう。人権と動物の権利を同じものだと考えれば、我々は「国民」や「人類」といった集団全体のためであれば個体を犠牲にすることもあり得ると認めることになるだろう。
大屋雄裕「提題」)

こういった問いかけは、むしろ最近では一般的な倫理学の風景となってきた。カントの「人間の尊厳」概念が、もしも他の動物に一般化されるのであれば、逆に、なぜその一般化は「人間自身」に返ってこないと言えるのか、ということになる。つまり、

  • 人間の動物化=人間の「自然化」

というわけである。
しかし、こういった大屋氏のいわゆる「リベラル」的な問いかけに対する、安藤氏の応答は二つに分かれる。

宇宙船の事例では、仮に乗組員たちの誰かが他者の生存のために自発的に死を甘受するならば、絶滅を免れることができるだろう。問題になっているのは、我々が道徳的に正当に他者の死を強いることが許されない、ということなのである(ある行為を他者に強いて要求することの道徳的正当性こそが正義と権利の問題であることを思い出そう)。他者の生存のために強いられず自ら死を引き受ける、正義を超えた「余分の務め supererogation」を果たす道徳的に卓越した主体が不在であるような宇宙船で正義に適った結果として絶滅が生ずるということには、なんら不思議な点はないのではないだろうか(彼らは全滅したにせよ誰も殺されはしなかったのである)。正義は我々が他者に強いて要求できることの限界を定めるものでしかないから、誰もが正義のみを守りそれを越えて行為をしないならば、最善の事態が生じないことは不思議はない。つまるところ、彼らは誰かが生存するには、道徳的に不足していたのである。大屋が制約説に「皮肉」を見出すとすれば、それは最善の状態を実現することこそが正義の要請であるという帰結主義と目的説的権利観を先取して----そこでは義務を超える「余分の務め」の領域が原理的にそもそも存在し得ない----この状況を眺めているからにほかならない。
(安藤馨「応答」)

一つは、ようするに「なぜ人間は絶滅してはならないのか」ということになるであろう。それは「自明」なのか? 例えば、映画「BLAME(ブラム)」の村を考えてみよう。村が滅びることは、ある意味、「必然」である。それは、食料が尽きれば、滅びるであろう。だとするなら、村が生き残るかどうかは、

  • 一人一人の振る舞い

にしか求められない。そういった性質のものを「ルール」で決定できると思うことの方がどうかしているわけなのである。

大屋の異星人が「圧倒的な技術力を持ち、実力では人類が到底対抗できない」ことを思い出そう。上述の議論に従えば道徳はホモ・サピエンスたちが利益衝突を回避すべく構成するものであったわけだが、異星人たちについて同じことを考えるならば、異星人たちの「道徳」の主体の範囲に異星人と同じ地位でホモ・サピエンスが入ってくるとは思えないだろう。ホモ・サピエンスが圧倒的実力を備えた異星人の利益にとってなんら脅威にはならないだろうからである。その限り、異星人の「道徳」に於いて----それを道徳_Aと呼ぼう----ホモ・サピエンスエゾシカは同様の扱いを受けることになるだろう。我々が示したのはホモ・サピエンスが作り上げる道徳----道徳_Hと呼ぼう----がホモ・サピエンス(と普遍化可能性から異星人)の「人権」を正当化する予知があるということであり、我々が「道徳」という語で指すのは我々の道徳_Hのことだから、いわゆる「人権」の道徳的正当化可能性が示されたことにはなる。しかし、それが道徳_Aに於いて正当化されることは期待しがたい。圧倒的存在である異星人たちは行為指針として道徳_Aを採用することも道徳_Hを採用することもできる。だが、彼らが道徳_Aではなく道徳_Hを採用すべきであることを我々は彼らに説得的に示すことができるだろうか(そもそも道徳_Aや道徳_Hの外側で何によってそのようなことが可能だろうか)? ことは、理性的主体たちが物理的能力に拘らずその理性のゆえに共通に従うべき規範の体系などあるのだろうか(そしてそれが我らが道徳_Hと一致するだろうか)、という道徳哲学の根本問題のひとつへと差し戻されざるを得ないのである。
大屋雄裕「提題」)

もう一つの論点は、私が最初にこだわった話に近い。そもそもどうして人間が決めたルールが人間の「エゴイズム」であってはならない、と思うのか、という出発点である。
私たちはそもそも、動物に「義務」を要求しない。その代わりに、動物を無作法に扱わない。それはたとえ動物が「食料」としての存在だったとしても、滅んでしまえば、食料としても扱えないから、ということになるだろう。
それは、映画「BLAME(ブラム)」の村人が霧亥をきちんと

  • 客人

としてもてなすことに近いとも言えるだろう。しかし、そのことはまったく「当たり前」のルールではない。村人はだれでも、なんらかの「葛藤」を経て、霧亥を客人としてもてなすことを選んでいる。つまり、このことは少しも「自明」ではないのだ。
ここで、村人がもっているのが「道徳_H」で、霧亥がもっているのが「道徳_A」だと考えることができるだろう。
しょせん私たちは、私たちの「ルール」に従うことしかできないし、それが「普遍的」かどうかを考えることは、どこか傲慢なわけである。それは、村人のルールを霧亥にも適用しようという場合に私たちを襲う、なんとも言えない、傲慢不遜な畏れと言うこともできるであろう。
もしも私が、映画「BLAME(ブラム)」の村に生まれた一人の村人だったとしよう。そんな私が「普遍的な人類」のような概念を獲得できるだろうか? そもそも、霧亥が来るまで、村の外に人がいることを体験した人はいなかった。そんな状態で、村人以外の人という「観念」は成立しうるのか?
しかし、問題はそこではない。
たとえ、そういった観念が成立しなかったとしても、人が生きるための「倫理」というのはありうるのではないのか、と問いたいわけである。
私たちが、上記の大屋氏の問題設定を不快に思うのは、どうして地球の裏側に人間がいることを知っていないと「正しい」倫理的な判断ができないと解釈するのか、という一種の「普遍主義」に対する不快感だと言えるのかもしれない。なぜリベラルは「正しい」ことをやりたがるのか。それは、村人が道徳_Hに従っていることに対して、どうして霧亥が道徳_Aに従っているということを「想像」できないのか、といった問題と言うこともできるだろう。さて。どっちが「正しい」のだろうか? しかし、そんな「比較」にどんな意味があるのだろうか。なぜなら、最初から

  • 大屋の異星人が「圧倒的な技術力を持ち、実力では人類が到底対抗できない」ことを思い出そう。

という「前提」がされているのに...。

法哲学と法哲学の対話

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