平等と大学

(平成の治安維持法である共謀罪衆議院を可決したというわけだが、そもそも、スノーデンの日米合同委員会についての告発を考えるなら、マイナンバー、盗聴法、共謀罪集団的自衛権と、いわゆる、国会がまったく機能せず、与党がまるで、亡霊にでもとりつかれたように、まったく会話がかみあわないで、法案だけを通したときの国会のあの「異様」な姿が全部、

であったということを意味していた、ということになるわけであろう。アメリカから xkeyscoreの情報をもらうためには、これらの一方的な要求を飲まなければならなかった、と。だとするなら、日本は未来永劫、アメリカの奴隷なんだな、ということになるであろう...。)
多くの場合、「平等」問題を考えるとき、原始共産社会というものが参照される。それは、農村社会になる前の、狩猟採集社会だということになる。
この社会では、集団で「狩り」を行った獲物は、そのままにしておくと「腐る」から、さっさと

  • みんな

で食べてしまわなければならない、という制限がある。しかし、一人の人が一回で食べられる食料の量には限界があるから、基本的に

  • 余っていれば誰が食べてもいい

というような「太っ腹」戦略をとることになる。この場合、食べてはならない相手とは「敵」ということになる。
しかし、農村社会に移行することで、食料というのは「保存がきくもの」というふうに認識が変わっていく。そうすると、みんなに配ることを急いで行う必要がなくなる。必然的に、

  • みんなに配らなくなる

わけである。一カ所に集めて、ある特定の人だけの所有物になる。
この問題は現代においても続いている。例えば江戸幕府なら、農民から年貢としてお米を納めさせるわけだが、それを幕府の倉に一カ所に集めたら、じゃあ、それを「みんな」に分けるとき、「ちょっと待て」というわけである。地球の裏側には飢えて死にそうな人がいるのに、彼らに分けないで、自分たちだけで消費していいのか、とか。地球の果てには飢えて死にそうな人が、とか、しまいには、宇宙の果てには飢えて死にそうな人が、とか言い始めて、

  • 結局、誰にも配らない

という結果になるわけである。
ここで、基本的に世界は平等の「ため」にある、と考えてみよう。すると、税金は人々を「平等」にするために行っているということになる。よって、所得税の「累進課税」は正しい、ということになる。お金持ちはたくさんお金を払わなくてはならなくて、貧乏人は少なくていいよ、ということになる。今度は、「分配」も同じ原理が働く。貧乏人には多くのお金が国家からもらえるが、お金持ちは少しももらえない、と。
しかし、ここで一つの問題が発生する。
例えば、国家の「借金」を考えてみよう。国債によって国家は国民から「借金」をする。しかし、その金額があまりに大きくなりすぎると、そもそも国家は国民に、借金の返済ができなくなるのではないか、という疑いが発生する。例えば、軍事費を考えてみよう。周辺国が軍備増強を行っているのであれば、それに対抗して自国ももっと、軍備を増強しなければならないのではないか。
すると、お金の「分配」には「限界」があるんじゃないのか、という話になっていく。
もともとは、国家のお金は国民に「等しく」分けられる、ということになっていた。ところが、そうやって貧乏人にお金を与えると、国が貧乏になり、軍事費にお金を回せなくなることが分かってくる。すると、一つの議論として

  • 貧乏人にお金を与えなくてもいいんじゃないのか

となってくる。どうせ貧乏人は国家に逆らえないんだから、彼らの要求は無視していいんじゃないのか、と。
また、逆の問題もある。つまり、お金持ちが日本を逃げていく、というわけである。彼らは、日本のような、税金の高い国から脱出して、もっと安く受け入れてくれる国家に移住をすれば、そこの税金は安いんだから、お得だ、というわけであるし、その国にしてみれば、日本ほどに税金を払ってくれなくても、お金持ちが税金を払ってくれるだけで、その国にしてみれば、お得だ、というわけである。
そう考えるなら、日本は新自由主義路線を行くしかない、ということになるのだろうか?
法人税を徹底的に廃止して、金持ち優遇税制にして、お金持ちが日本から逃げないようにして、と。
馬鹿馬鹿しい話であろう。
日本国家に税金を払いたくないという経営者は日本から追い出そう。そして、その企業の商品をボイコットしよう。
日本人のために、自分が稼いだお金を使いたくないというなら、どうぞ、日本から出ていってください。つまりは、他の国の人のために、自分の税金を使いたいんでしょ。どうぞ、日本から出ていってください。そして、日本で商品を売らないでください。だって、日本の幸福のために働きたくないんでしょ。だったら、外国で商品を売ってください。
日本には日本のために働きたいと思っている人に働いてもらいましょう。
そして、基本的に日本人にはだれでも「平等」な教育を行いましょう。みんな、同じ教養レベルになってもらいましょう。そして、日本人なら全員が大学に行けるようにしましょう。今までは、勉強ができても家庭が貧しいと大学に行けませんでした。しかし、そうやって学歴差ができると、社会に出てから、いわれのない差別をされてしまう。だったら、

  • 人的資本

をフェアにするという意味においても、基本的にお金がなくても、日本人なら日本の大学に入れるようにしましょう(言うまでもなく、入学試験があることが前提ですが、大事なことは最終的な学歴のフェアネスだ、ということです。大器晩成で、遅くなってから、学問に目覚める人だっているし、そうだからといって、幼なくして、将来のアカデミズムから排斥されることは許されないでしょう)。
私は今でも、ある程度はこういった「平等」政策が日本で実現していると思っているけれども、

  • 教育の無償化

は、さらにこの方向をはっきりと後押しするという意味で、より強力に進めなければならない、と思っているが、むしろ、こういった方向性に反対を示しているのが、もともと東大卒の大学教授たちといった「エリート」だったりするわけで、なかなかやっかいだ、というわけである...)。